バリントン・J・ベイリー(1937-2008)。イギリスのSF作家。机上の空論としか思えないアイディアを大量に投入した小説を書く。設定厨SF、バカSFといったらこの人。
代表作は二つの時間が正面衝突する話『時間衝突』、禅の力で恒星を破壊する話『禅銃』、服が人間を操る話『カエアンの聖衣』など。
涼宮ハルヒとギャラクシーエンジェルで『カエアンの聖衣』のネタがあった。(どちらも「カエアンのコスプレ」という形で)
地球人のエリオットとアラニーは、異星人であるバルベイン、アブラック、ジードとともに惑星ファイブへと調査にやってきた。その惑星では、全ての生物は自らの経験を学習し、それを基に遺伝情報を変異させる(生殖腺に分子工場があり、脳からの指令を元に遺伝子を組み替える)。そのため、一世代で生物の形態は大きく変わり、『種』というものは存在しない。エリオットは、そのなかでも知的生命体らしき〈ドミヌス〉とコンタクトを取ろうとするが、その過程でアラニーが殺される。バルベインとアブラックは、双方ともドミヌスを母星へ連れていくと主張し、対立する。バルベインの種族は服従するための対象として、宇宙で最も横暴な生物を探しており、そのための候補が〈ドミヌス〉であった。一方、アブラックの種族は風変わりな死が美徳とされ、それをもたらす〈ドミヌス〉を求めていたのだ。対立した二人は決闘し、死亡する。残ったジードの種族は『完全な無』に憧れ、自身の種の存在をなかったことにするため、時間移動技術を持つ文明を探していた。ジードはエリオットに、宇宙の知的生命体にはなんの共通の基盤もなく、知的好奇心すらも人類の他の種は持ち合わせていないと説く。それを聞いたエリオットは、人類の特質には復讐もあると言い、〈ドミヌス〉と対決しようと出ていく。探検隊が全滅した後、〈ドミヌス〉は同じようなものがまた侵入してくると推測し、惑星全体を防衛基地に改造し、再び来る宇宙船を待ち続けるのだった。
この小説を読んだ感想を一人ずつ言ってください(小説を読んでいない人はあらすじを読んだ感想、この種の話は好みか、生物学について、高校生のとき生物教科の思い出、昨日見た夢、あるいはまったく関係ない話題などを話して下さい)
『遺伝情報はDNAからRNAを介してタンパク質へと至り、逆転は起こらない』という生物学の基本法則。
例外として、レトロウィルスではRNAの情報がDNAに転写され、更にそれが宿主のDNAに組み込まれ、宿主細胞でウィルス合成が行われるということがある。
真核生物の細胞内では、単純にDNA→RNA→タンパク質と遺伝情報が流れるだけではなく、RNAの段階で情報の編集が行われており、意味のない遺伝情報(イントロン)を消去している(スプライジング)。
本作で見られるような獲得形質の遺伝は地球上の生物には見られないが、DNA配列の変化を伴わない遺伝子発現の後天的な変化というのはあるそうだ、DNAをメチル化(余分な分子がくっつく)してその部分の遺伝情報が読みとられなくする(エピジェネティクス)
その他、生物学的に突っ込みたいところがあれば
本作では各種族に『特質』があり、人間の特質は好奇心と復讐心だ、といった書き方がなされていたが、この考え方は危険である。あるひとつの特質を『人間本性』とする言説自体が特定の人物・特定の文化・特定の時代の価値観を普遍化し、それから外れたものを病理化する権力なのではなかろうか。
『人間本性』というものは、検証できるはずもなく、それに基づいた批判は、ただマジョリティの価値観によりかかった怠惰な批判であり、それはときに暴力となりうる。これまでの歴史上で『非人間的』というレッテルは社会のマイノリティへ向けられる攻撃であった。
参考『フーコーとチョムスキー 人間本性について』
http://www.youtube.com/watch?v=iWaTtRvH7LA
「人間には自由な創造をする性質がある、それにより社会変革をしていこう」というチョムスキーに対して、フーコーは「その『人間の性質』というものが支配のためにつくられたものだ」と反論