1968年公開、四年間の歳月と一千万ドルを費やして製作された。SF映画の記念碑的傑作。キューブリック監督の完璧主義により細部に至るまでの科学的な考証が行われ、(当時から見た)2001年という未来世界がリアルに映し出されている。寸分に至るまで完璧に作られた特撮は現在のCGに比べても遜色ないだろう。
本作の脚本はクラークとキューブリックの合同で作られ、それを小説化したのが小説版『2001年宇宙の旅』。小説版は映画製作と同時に執筆されたため、原作でもノベラゼーションでもない。後にクラークが小説版の続編『2010年宇宙の旅』『2061年宇宙の旅』『3001年終局への旅』を執筆、『2010年』はピーター・ハイアムズ監督により映画化された。
「神の概念が「2001年宇宙の旅」の核だと言いたい。でも、それは伝統的な、人に模した神のイメージではない。わたしは、神の興味をそそる科学的定義を構築できると信じている」
スタンリー・キューブリック(『SF映画の世界』111ページより)
「この映画で目指したことは、神秘、美しさ、そして宇宙探索の可能性を伝えることだ。
それともう一つ、もっと野心的なテーマも盛り込んだ。それは人類が宇宙という階層組織のなかでどのような位置を占めうるかというテーマだ。地球が宇宙の中心でないことがわかったのはつい数百年前のことだ。宇宙での人類の地位は低い」アーサー・C・クラーク(インタビューより)
イギリスのSF作家(後にスリランカへ移住)。第二次世界大戦中はレーダー技師としてイギリス軍に務める。最終的には大尉にまで上り詰めた。人工衛星による電気通信リレーを世界で初めて発案。作家としては1946年「太陽系最後の日」でデビュー。1948年の「前哨」を輪切りに神のような異星人により人類が進化するという神秘的・宇宙的な要素がある小説を書くようになる(『幼年期の終わり(1958年)』『都市と星(1956年)』『2001年宇宙の旅(1968年)』)。それと同時に未来世界の技術的発展をリアルに描く技師時代の経験を生かした小説も書いている(『火星の砂(1951年)』『渇きの海(1961年)』『楽園の泉(1979年)』)1950年代から1970年代にかけてはアシモフ、ハインラインと並びビッグ・スリーと呼ばれるSF界の大御所として活躍した。両性愛者だったらしい。
スティーヴン・バクスターと共作した『火星の挽歌』(もっとも書いたのはほとんどバクスターだけど)は早川書房より12月8日発売。
アメリカの映画監督(後にイギリスへ移住)。カメラマンを経て映画監督になる。完全主義者であり、作品の全てを掌握しようとする姿勢はスタッフとの衝突を頻繁に引き起こした。
短編ドキュメンタリー『決闘試合の日』でデビュー。以降、戦争映画『突撃』、ナボコフの小説を原作とした『ロリータ』、冷戦ブラックコメディ『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』、時代劇『バリー・リンドン』、ホラー映画『シャイニング』など様々なジャンルの映画を世に送り出した。
謎の石板モノリスの正体は小説版では宇宙人による人類進化装置だと明かされているが、それはクラークが出した一つの答えにすぎない。映画では謎めいたクライマックスにより、それ以外の様々な解釈を可能にしている。他にどのような解釈ができるか考えよう(特に映画版を小説版より先に見た人の意見を聞きたい)。キューブリックも下記のように言っているし。
「あれの哲学的な意味や象徴的な意味は、観客が自由に考えればよい――そして観客が考えたということは、あの映画が、観客の心を深層で掴むのに成功したということじゃないか。ぼくのほうから道路地図を説明するつもりはないね」
スタンリー・キューブリック(『2001年宇宙の旅』267ページより)
「映像は原作シナリオから解放され、ほとんどなんでもありの解釈が可能になってしまった。たとえば、最後のシーンでスター・チャイルドが見下ろす惑星は、冒頭でヒトザルたちが住んでいた四百万年前の地球であり、映画全体は円環構造になっているという説。また宇宙飛行士ボーマンが飛び込む光の通路は、銀河系宇宙への旅であると同時に、意識の深層への下降であるという説。これとは別に、ボーマンは木星の引力に吸い寄せられて雲の中に突入し、サイケデリックな景観に幻惑された後、木星の地表に着いたという説」
伊藤典夫(『2001年宇宙の旅決定版』あとがきより)
作品中盤を占めるのはHALによる反乱のエピソードだが、それはモノリスによる人類の進化という作品の中心テーマとは一見、何の関わりもないように思われる。なぜこのようなエピソードが多くの時間を使って語られているのだろうか?
人間VS機械のヘゲモニー?
「通りいっぺんにスクリーンを見つめているだけでは想像もつかないけれど、この映画の最大の山場となるハルとボーマンの戦いは、明らかに、この宇宙における人間と機械の覇権争い(ヘゲモニー)というテーマを隠しているのだ」
伊藤典夫(『2001年宇宙の旅決定版』あとがきより)
また、映画版ではHALが反乱を起こした動機についても詳細が不明になっている(小説版では命令の矛盾による混乱が原因と説明されている)
世界的に有名なフィクション上の人工知能として、HALはAI研究の最終目標とも見られているが。HALレベルの人工知能を作ることは可能なのか? 現状での人工知能はどこまでいっている?
映画中、フランク・プールとHALがチェスをプレイしているシーンでは明らかな間違いが一つある。このチェスプレイは1910年にローシュとシュラージが対戦したものの再現であるため、キューブリックの単純なミスだとは思えない。監督はどのような意図を持ってこの間違いを作ったのだろうか?
この間違いを直接問いただした人はいないままキューブリックは死んでいった。
「ハルは『クイーンをビショップの3へ』と言っている。ここだ。ほら、実際にハルはQf3という手をモニタに映し出している。でも説明的表記法のQ-B3は、座標式のQf3ではないんだ。説明的表記法では白のプレイヤーも黒のプレイヤーも自分の見ている方向から行数を数える。白側のフランク・プールから見て三行目は、黒のハルから見て六行目に相当する。だからQf3にクイーンを動かすには、ビショップの3ではなく6といわなければならない」
(瀬名秀明『デカルトの密室』10ページより)
本作品(1968年)や『幼年期の終わり』(1953年)では超越的な力を持つ異星人が人類をより高い階梯存在へと進化させるという内容だが(おそらく愛読書であったオラフ・ステーブルトンの『最初にして最後の人類』『スターメイカー』の影響だろう)、続編の『3001年終局への旅』(1997年)や遺作『太陽の盾』(2005年)では人類が超越的な力を持つ異星人と頑張って戦うという内容になっている。どのようにしてこのような変化が起こったのだろうか?(本作品では神秘的なイメージを持っていたモノリスも『3001年終局への旅』ではただの道具にすぎなくなっている)→サイバーパンクの影響?
あのクラークもまた、80年代サイバーパンク以後のSFの流れに、いくぶんなりとも感化されたうえに、自己の最大のシリーズを根本からリメイクし続けている。……そう、サイバーパンク以後に『2001年』シリーズは根本的に変質したのではないか……
(巽孝之『2001年宇宙の旅講義』87ページより引用)
あるとき若い人と話していて、光の通廊のみごとな解釈に出会ったことがある。彼は通廊が“メモリ読み出し装置”の役も兼ねていると考えたという。ボーマンは宇宙的コンピューターにさしこまれたいわばフロッピー・ディスクであり、背後にいる超知性体は、彼の脳から必要な情報をとりだした上で、あの“バーチャルリアリティ”の部屋を用意したのだ。いかにも80年代的な発想だが、時代はそのように新しい意味をつけ加えていくものだし、キューブリックが似たような方向で考えなかったと決めつけることは誰にもできない。
(『2001年宇宙の旅決定版』伊藤典夫による訳者あとがきより)
(※サイバーパンク:1980年代に流行したSFのサブジャンル。人体や意識の機械的な拡張が日常的になった世界を舞台にし、体制に対する反発を大きなテーマにする。代表的著者にウィリアム・ギブスンやブルース・スターリングなど)
本作品では「人類を超越する存在/人類には理解不可能な存在」を描くとき、神秘的音楽とサイケデリックな色彩によるごまかしを用いた。これは後にも多用される手法であるが、他にどのような方法が考えられるか?→「ソラリス」「ストーカー」
古典的なクラシック音楽とリゲティの現代音楽が使われている
白(骨、軍事衛星、宇宙ステーション、ディスカバリー号)→道具、テクノロジーの象徴
赤(肉、HAL9000、宇宙服)→人間性、殺人の象徴?(ボーマンは赤い宇宙服を着てHALを殺す)
木星に向かう宇宙船ディスカバリー号の白く細長い形状は、あきらかに知性の白い骨の発展形だ。この骨にこびりつく肉と血が、ハル9000の赤い目とボーマンの赤い宇宙服で、赤い目のハルはプールと冬眠中の乗組員を殺し、赤い宇宙服のボーマンはハルを殺すのである。
(明石正紀『キューブリック映画の音楽的世界』178ページより)
「まどかマギカ」のラストシーンは本作品の超空間描写に影響を受けていると思うのですがどうでしょうか?
他にも本作品が影響を与えたと思われる作品を挙げてみよう。