スタニスワフ・レム『泰平ヨンの航星日記』より「第二十三回の旅」(2011-04-30, 草野)

【著者紹介】

スタニスワフ・レム。1921年ポーランド領(現ウクライナ領)リボフに生まれる。49年にクラクフに移り、大学で医学や哲学、理論生物学などを学ぶかたわら執筆活動を始める。51年の『金星応答なし』で一躍人気を博する。以来、宇宙版ほら吹き男爵冒険譚ともいえる〈泰平ヨン〉シリーズや、異星人とのコンタクト不可能性を描いた『ソラリス』『エデン』『砂漠の惑星』、メタフィクション『完全な真空』『虚数』など独自の批判的視点と想像力にみちた話題作を次々と発表し、SF界で不動の地位を築いた。2006年死去、84歳。

かなりの毒舌家として知られ、アメリカSFの批判がもとでアメリカSF名誉会員の資格を剥奪されたり、『ソラリス』映画化において解釈が分かれたためタルコフスキー監督と絶縁したりしたことも。

【本作品紹介】

本短編は現代のSFにて大きなテーマとなっている「身体・精神転送(およびコピー)」を考察した先駆け作品である、1954年という初期にこのような先進的なテーマを打ち出したんだからやはりレムは天才というほかない。ひょっとしたらこのテーマを描いた元祖作品かもしれない。

本書『泰平ヨンの航星日記』にはそのほかにも先見的な哲学SFが載っている。おすすめとしては社会制度の変容により人々の道徳・価値観・基礎概念が根底から変わる「第十三回の旅」、生物工学の発展とそれが宗教・社会に及ぼす変化を描いた「第二十一回の旅」、機械によりもたらされる「完全な秩序」を描いた「第二十四回の旅」。

続編の『泰平ヨンの回想記』、『未来学会議』、『現場検証』はいずれも絶版。それに続く『地球平和』は未訳。いつか出してくれないかなぁ。

【論点】

人物Aが原子の隅々までスキャンされ、また瞬時に消滅させられた。そして遠く離れた地点で(またはコンピューター上で)スキャン情報を基に再構成されA′となった。さて、このときAとA′は同一人物なのだろうか?(Aの自我/アイデンティティはA′に連続しているか?)

〈肯定派の主張〉

  • 自我とは情報処理のパターンである、AとA′が同じ情報処理をしているなら自我は連続していると見なすべきだ。(→この論法ならコンピューター上の自我再構成も連続的だといえる)
  • 原子には「あの原子、この原子」という区別は存在しない、存在の本質は「どのように原子が構成されているか」である。原子の構成が同じなら同じ存在なのだ。そして存在としての連続性があれば、自我は連続している。(→この論法であればコンピュータ上の自我再構成は連続的だといえない)
  • そもそも、人間を構成する原子は常時入れ替わっている、一か月前私を構成した原子は今構成している原子とまったく別のものだ。転送機のような事例は自然に起こっている。
  • 周囲の人々(および社会)がA′をAとして認識すれば、A=A′だ、アイデンティティとは周囲の人々との関係性だ。
  • 〈否定派の主張〉

  • A′にしてみればAの記憶を持ってAと自分が同じように感じるが(そして、他者からもそう見えるが)、Aの主観にしてみれば転送のとき死ぬのだ。
  • (Aの視点に立って)たしかにA′はわたしに物凄く途方もなくよく似た人物であろう、だがそれがわたしになるという証拠はどこにあるのだ!?
  • 自然な原子の入れ替わりは線形的(なめらか)だから自我は連続するが、転送機の場合非線形的(突然全ての原子が入れ替わる)だから自我は連続しない。
  • スキャン時と消去時の時間差があるので、消去された体はスキャンされた体と別物である。(これは自然でも起きているといえる、例えば我々は眠る直前のことを覚えていない、寝る直前の自我は起きたときの自我と連続していないともいえる、そのような意味では我々は小さな死に毎晩直面しているのだ)
  • (コンピュータへの自我転送のみ否定)もし、コンピュータ上で再構成された自我の情報処理パターンが脳のそれと同じでも、原子の配置が全く違うので自我は連続しれいるといえない。
  • また、魂の存在を肯定する立場は否定派だろう(魂がコピー・転送可能だという仮定がない限り)
  • 〈その他の主張〉

  • そもそも、今の瞬間と次の瞬間の自我が連続しているということ自体、(根拠はないが、それ以外のことを考えることはできないという理由により)採用されている一つの『制度・規約』に他ならない、この『制度・規約』外のことを考えるものは『狂気』として処理される。だから、この問題でもテレポート前と後の間の自我が連続する(あるいはしない)という『制度・規約』をつくり、それに従わない者は『狂気』として処理すればよい。
  • そもそも、自我が連続しているってどういうこと? もし、日常生活において本当は今の瞬間と次の瞬間の自我が連続していなくても、われわれは連続していると感じるだろう。(ちょうど、人物A′が『A→A′において自分の自我は連続している』と感じるように!)
  • このような議論に意味はない、他者の主観を体験する方法はないのだから、たとえ転送機が発明されたとしても自我が連続するのかしないのかわからない。外見上、連続してもしなくてもまったく変わらないのだ。しかし、もし転送機が発明され、その使用が日常化されれば、プラグマティズムにより『自我は連続している』という社会的な同意が示されるだろう。
  • ほかにもなにかあったらどしどし言ってね。

    おまけ

    【他作品紹介】身体・精神転送(orコピー)と自我/アイデンティティの関係を描いた作品。

    「にせもの」(フィリップ・K・ディック、『パーキー・パッドの日々』に収録、1953年)

    平凡な生活を送るスペンス・オーラムは、ある日突然保安局に連行される。彼は宇宙人が送り込んだオーラムのにせものであり、その正体は自爆ロボットだというのだ。必死に自分が本物だと主張するオーラムだが…。

    『ソラリス』(スタニスワフ・レム、1961年)

    人類とコンタクトが不可能の知性体「ソラリスの海」。その観測ステーションに来た主人公は過去自殺した恋人と出会う、それは「海」が自分の記憶を実体化した結果であった。「海」の真意を探ろうとする主人公だが、その試みは最後まで成功しない。

    〈スタートレック〉シリーズ(米ドラマシリーズ、1966年~)

    課題作と同じ原理のテレポーテーション装置が惑星への離着陸のために使われる。宇宙船の離着陸シーン撮影には予算がかかるため設定がそうなったらしい。

    『光の王』(ロジャー・ゼラズニイ、1967年)

    輪廻転生がテクノロジーにより実現した世界、法を犯さなければ死んでも新しい身体を貰える。

    「脳細胞の体操―テレポーテーションの理論と実践―」(ラリイ・ニーヴン、『無常の月』に収録、1971年)

    転送機についての哲学的・社会的考察集、アイデンティティ問題のほかに転送機が発明された場合の社会的変動や転送機の物理学的考察が載っている。

    〈リバーワールド〉シリーズ(フィリップ・ホセ・ファーマー、1972年)

    魂の存在を肯定し、なおかつそれは転送可能(別のところで身体が再構成されると瞬間的にその身体にとりつく)だとした作品。

    『へびつかい座ホットライン』(ジョン・ヴァーリイ、1977年)

    全ての人が自分の自我情報のバックアップを保存している未来世界が舞台、もし死ぬことがあったとしても遺伝情報から再構成される身体に自我情報をダウンロードすれば蘇る。その人の『身体』がその人の持ち物になり、殺人の重大性は強盗と同クラスとなる。

    『スタークエイク』(ロバート・L・フォワード、1985年)

    主要登場人物が死んだと思ったら、死ぬ直前に脳スキャンされてコンピューター上で生きていた!というハッピーエンド、そこで終わってしまっているので、自我の連続性に関する考察はない。

    『永劫』(グレッグ・ベア、1985年)

    魂が存在しているという世界観、未来人が身体をコピーしてもそこに自我は宿らなかった。

    『攻殻機動隊』(士朗正宗、1989年)

    ナノマシンにより自分の脳を電脳化(機械化)する。魂(ゴースト)が存在しているという世界観なので自我の連続性は保証されている。

    「ぼくになることを」(グレッグ・イーガン、『祈りの海』に収録、1990年)

    『宝石』という機械に自分の脳と全く同一に情報処理するよう学習させ、年老いたら脳を外科的に除去する。『宝石』が残った状況でアイデンティティは連続しているのか?

    「貸金庫」(グレッグ・イーガン、『祈りの海』に収録、1990年)

    「わたし」は一日刻みで他の人に移る、幽霊のような意識である。この意識にアイデンティティ(自己連続感)は宿るか? →作中では宿る。

    『内なる宇宙』(J.P.ホーガン、1991年)

    転送機は一つのガジェットとしてしか登場しないが、「自我は連続しない? なにいってんのそんなの盲目的な恐れだよ」と登場人物が言う。

    『ゴールデン・フリース』(ロバート・J・ソウヤー、1991年)

    SFミステリ、犯人側が探偵の人格シミュレーションを構築してどのような推理が行われているか確かめる。

    「ふたりの距離」(グレッグ・イーガン、1992年、『ひとりっ子』に収録)

    恋人同士の自我を完全に混ぜ合わせ、完全に同一な自我を二つ作る。

    『順列都市』『ディアスポラ』(グレッグ・イーガン、1994年、1997年)

    脳をスキャンし、その情報をコンピューター上で処理して不老不死になった人々のお話。『ディアスポラ』ではコンピューター内に精神転送することを嫌がる人々を主人公が説得する場面がある。

    「誘拐」(グレッグ・イーガン、1995年、『祈りの海』に収録)

    ある日主人公は妻を誘拐したという脅迫を受け取る。しかし現実には妻は無事だった。実は犯人は主人公の脳データの中から妻に関するデータを取り出して、それを基にコンピュータ上で妻の人格を再構成していたのだ。『他者』とは結局は『自分の中での他者のシミュレーション』であるということが示される。

    『ポスト・ヒューマン誕生』(レイ・カーツワイル、2005年)

    フィクションではなく、発明家・未来学者が描く未来予想書。本書によると、2030年代には脳をスキャンしてその人の自我をコンピューター内で再構成することが可能になる。余談だが、この邦題は著者の主張と真逆である(著者は『人間(ヒューマン)と機械化された脱人間(ポスト・ヒューマン)の間には明確な区別はない。どちらとも“人間”なのだ』と言う主張をしている)。

    原題はthe singularity is near

    『ラギッド・ガール』(飛浩隆、2006年)

    コンピューター上での「完全な自我」の再現は不可能だということが証明され、代替案として自我の最低限の要素だけ抽出した「情報的似姿」が誕生。情報的似姿をコンピューター内世界で冒険させ、その記憶を自分に入れるというエンターテイメント産業が出来上がる。

    『けいおん!!』(京都アニメーション、2010年)

    「もしもAであれば、その自我(内面)がどうなろうとAはAじゃないか」という哲学が述べられる作品。肉体、あるいは周囲との関係性(周囲がAをAと認識し続けるか否か)にアイデンティティの連続性の定義を置く?

    (まてよ、「AはどうなろうとAだ(Aはどう変わろうとAからは逃れられない)」だから、そもそもアイデンティティをなにかで証拠づけるというやり方を放棄して、自己連続性を「絶対の原理」としているのかな?)→16話「先輩!」を参照

    『魔法少女まどか☆マギカ』(シャフト、2011年)

    身体と直結していた自我が、体外の宝石(ソウルジェム)のなかに入れられる。キャラクターの一人は自分の身体が自分ではないという状況をグロテスクに感じる。アンチ・イーガンとも解釈できる作品。

    これも肉体(身体)をアイデンティティとしているのかな?

    読書会で出た意見


    Top » 読書会 » スタニスワフ・レム『泰平ヨンの航星日記』