ひこ・田中「子どもの物語はどこへ行くのか」(2009-11-05, 中村)

1.著者紹介

ひこ・田中(ひこ・たなか、1953年-)は、児童文学作家である。大阪府生まれ。同志社大学文学部卒業。1990年『お引越し』で第1回椋鳩十児童文学賞受賞。『ごめん』で第44回産経児童出版文化賞JR賞受賞。『児童文学書評』主宰。

2.

後編で『新世紀エヴァンゲリオン』を子どもの物語、ある種の成長物語として解釈しているが、この方法論をポスト・エヴァの作品群、具体的には俗にセカイ系と呼ばれる作品に応用してみよう。『新世紀エヴァンゲリオン』と比較すれば、セカイ系において大人は大人らしく振舞っているし、主人公の精神的な成長も描かれているといえる。だがそれは、むき出しの外部との接触をいわゆる戦闘少女に媒介させているからではないのか。ゆえに、セカイ系では世界の真実、世界の謎といったものは極めて限定的にしか描かれない。

また、セカイ系のラストは、極めて閉鎖的なもの(「君」と「僕」さえいればいい)であるが、この構造を作品全体に敷衍したのが、『涼宮ハルヒの憂鬱』や『めだかボックス』ということになるであろう。これらの作品では、物語の舞台は極めて閉鎖的な空間であり(閉鎖空間・箱庭学園)、少女の意思で全ての事象が決定する。重要なのは、これらの作品ではある種の居直りがある、ということだ。つまり、物語内の事象(世界の謎)を説明する理屈がないことが、作品中で明言されている。つまり、『ハルヒ』では、世界観に対して複数の解釈が語られ、『メダカボックス』では「アブノーマルは努力も環境も運も関係なく以上で気持ち悪い結果だけを常に出してしまう」という説明がなされる。噛み砕いて言えば、『エヴァ』においては「エヴァンゲリオンとは何か?」という問いは有効であるが、『ハルヒ』においては「涼宮ハルヒとは何者か?」は無効だということである。

セカイ系では、少女に全ての負荷を押しつけることで、かろうじて少年の成長が描かれ、『ハルヒ』ではそもそも成長する必要のないセカイが描かれている、あるいは成長物語という枠組みが無効化されているといえよう。こういった物語が読者に支持され、流行するということは、成長が魅力的でない、つまり未来に希望を持てなくなっているという時代背景があると考えられるが、その中でもより明るい作品はないのだろうか。個人的見解としてここで2つのパターンを挙げておく。

一つは、『らきすた』や『けいおん』に代表される、快楽的な日常をただただ描いていくタイプの作品である。これらの作品では、だらだらした日常がはっきりと肯定されており、そこには成長しなければというプレッシャーも、大人との軋轢もない。そこに描かれる大人はある意味で子供よりも子供じみている。

もう一つは、『アイシールド21』や『おれはキャプテン』のような新しいタイプのスポ根である。このタイプの作品における主人公は、自分の選手としての特徴や限界をわきまえており、どうやって自分の武器を活かして勝利するかということに心血を注いでいる。また、父性的なコーチやそれに類する人物が出てこないのも特徴である。主人公と対比的な存在として天才が登場することも多いが、これは『めだかボックス』におけるスペシャルとアブノーマルの対立と関連付けることができ、その点でも『めだかボックス』は興味深い物語である。

3.論点


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