ディズニー「ファイアボール」(2009/05/21, 中村)

あらすじ

いかにも遠い未来、ありふれた惑星にて--- 人類の抵抗により、ロボットによる貴族政治が終焉を迎えようとしていた。 世界から隔離された屋敷を舞台に、 フリューゲル公爵の娘ドロッセル、 そしてその執事ゲデヒトニス、 2体のロボットによる他愛ない日常会話が始まる。 -- ディズニーチャンネル ファイアボール公式サイトより引用

解説

今回は作品の内容(セリフや世界観設定など)ではなく、構造的な側面から見ていきたい。一見して分かる通り、この作品の舞台は屋敷の広間に限定されており、それ以外の場面が映ることはほとんどない。登場人物も二人しかおらず、作品を主に構成しているのはその二人の会話である。また、その二人には表情というものがなく、視聴者は感情移入しにくい。以上のことから、「ファイアボール」は映画的な作品というよりはむしろ、演劇的な作品だといえる。ここに「ファイアボール」を解くカギがある。*1たとえば、無数のパロディが「ファイアボール」に含まれているが、それはすなわち一種の様式美であり、様式こそ、演劇を演劇たらしめるものである。

さて、今回着目したいのは、視聴者との関係である。一般的に言って、演劇を見るときの方が、視聴者は自分が見る側であることを強く意識する。つまり、「ファイアボール」を見るとき、そこには「舞台vs視聴者」という関係性が存在する。*2それはすなわち、会話の端々にあらわれる「屋敷の外部にいる人類」という存在が、単に作品内の脅威としてのみではなく、「舞台vs視聴者」という関係性を壊すものとしてもあるということである。外部の存在がほのめかされたとき、視聴者はある種の不安、あるいは切なさを感じ取る。それは、ドロッセルとゲデヒトニスの他愛無い会話が実は、極めて不安定な基盤の上にあることを知るからであるが、それだけでなく、それがこの物語の終焉を暗示しているからでもある。物語の構造が崩れるとき、それはすなわち物語が終わるときである。本作のラストにおいて屋敷の壁が破壊されるのは必然的であり、物語の初めから予感されていたことでもある。

*1 つまり、コントみたいだってこと!

*2 第11話を見よ!

補記

「この作品は意味深なテーマを選びだし、どうしようもなく抽象的に書いているだけに過ぎない」とか「知的ペテンの一種のように思われる」とか「全体的に説明が理解不能なほどに省略されている」とか言う輩がいるかもしれないので、一応。

まず、SF的発想がサブカルチャーに浸透しきっている現在、「ファイアボール」のような大胆で実験的な作品が、受け入れられる素地は十分にあるといえる。確かに、作品を通して見ても、結局何が起きているのかはよくわからないが、そういう作品として楽しむこともできるし、足りない部分を補って色々と想像するだけのバックグラウンドを多くの人は持っていると思う。

また、プロットを抜き出してきて、それに論評を加えてよしとするのは間違っていると思う。確かに、プロットは大事だが、それだけで作品ができている訳ではない。そもそも批評というのは、フォークでコーヒーを飲むようなもので、作品の全てを解き明かすことなどできない。そして、そこにこそ逆に批評の価値が存在する可能性があるのではないだろうか。

論点

読書会を終えて

上記の議論については特に反論もなく、議論はいまいち盛り上がらなかった。しかし、作品自体は好意的に捉えてくれた人が多く、その意味では読書会をやったかいがあった。星雲章候補作に外れなし!


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