「接続された女」の世界は商業と国家によって支配され、特に巨大企業GTXはリアルタイムで視聴者の詳細な反応を把握し、そこから有名人をつくり出すことで事実上経済をコントロールしている。私達の世界も似た状態にあるが、メディアの中でもインターネットだけが異質と言いえる。しかし、現在自由をもたらしているインターネットはこのままいけば、商業や政府による完全なコントロールをもたらすのではないか?すなわち、インターネットこそ「接続された女」の世界へ通じる道なのではないか?
しかしながら、読書会ではせっかく用意した論点が論じられず、大変残念であった。
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア(James Tiptree, Jr., 1915?1987)
アメリカのSF作家。本名はアリス・B・シェルドン。1946年"The Lucky Ones"で作家としてデビュー。初期は公に姿を表さず仮面作家として活躍し、その正体については一論争があったが、母親に関する記述から女性ということが判明し、SF界に「ティプトリーショック」と呼ばれる衝撃をもたらした。ティプトリーショック後も十数年間、執筆を続けたが、1987年重度の障害を負った夫と共に心中。バージニアの自宅にて夫と手をつなぎ死亡している状態で発見された。代表作はネビュラ賞を獲得した「愛はさだめ、さだめは死」やヒューゴー賞を受賞した「接続された女」、ルーカス賞に輝いた「たったひとつの冴えたやり方」など。
近未来、広告が禁止された世界。放送ネットワークを掌握する巨大企業GTXは有名人を意図的に作り出すことで、世界経済を掌握していた。そんな社会の片隅で自殺を試みたオーク、P・パーグはGTXの目に止まり、世界的アイドル・デルフィと"成る"。デルフィは瞬く間に世界中を虜にし、一躍、GTXの金のめんどりとなるが、そんなあるとき、GTX幹部の息子ポール・アイシャムは彼女に恋をしてしまう……。
「接続された女」の世界は、国家と商業のふたつの権力によって支配されている。まず、巨大企業GTXが放送ネットワークを独占し、意のままに有名人(あるいは神)をつくり出すことによって、事実上、経済をコントロールしている。一方で政府もまったくの無力というわけではない。GTXですら(少なくとも表面上は)反広告法に服していることからわかるように、国家はなお相応の権力を持ちつづけている。
私達の世界も「接続された女」の世界と似ている。例えば、テレビ放送は少数の主要なテレビ局の手に握られ、その日々の放送の中では使い捨ての有名人が量産されつづけている。これらのテレビ局を基礎付け、規制しているのは国家の手になる法律だ。人々の行動様式もまた同じ。噂によると、この「現実世界」においては、テレビというチカチカ光る機械がどの家庭にも少なくとも一台あって、人々は1日平均3時間以上も彼らの作った番組を眺めていて、しかも、ある番組で称賛されるや否や、その商品が瞬く間に店頭から消えたりするらしい。なんと恐ろしいことか。テレビ以外のメディア、つまり新聞や雑誌といったものもほとんど似たり寄ったりの状態にある。
しかし、この世にはまだ大企業や政府の支配の手が完全には及んでないメディアが存在する: インターネットだ。インターネットは今現在、商業的にも法的にも完全なコントロールを免れている。インターネットでの主体は商業というよりは個人で、秩序は法律というより自己規律によって保たれている。そこには強大な権力をふるう企業も主権国家も存在せず、無数の個人がほとんど規制を受けること無くあちらこちらを飛び回っている。
だが諸君、実のところ、この自由を謳歌できる時間はもはやそう長くは無い。それどころか、現在、我々に規制の緩やかな世界を提供してくれているインターネットは、今後完全なコントロールの装置にすらなりうるのだ。事実、ここ十年でインターネットは着実に商業と国家の前にひざまずきつつある。野性の象の最大の敵は人間に飼い慣らされた象だ。彼らに服従したインターネットはおそらく、テレビや新聞なんかよりもはるかに恐ろしい敵となる。今回の読書会の目的は、今、何がおこりつつあるのかを明らかにすることにある。まずは、ここ十数年でインターネットがどのような変化をとげたのかを見てみよう。
1990年代、インターネットではリバタリアニズムの思想が吹き荒れていた。インチキな政府や汚らわしい商業主義なんてものは必要なく、インターネット上ではカオスなしのアナーキーが実現可能だと考えられていた。もっといえば、そもそも政府や商業はインターネットに介入することが「できない」とすら考えられていた。自己組織化を続ける中央権力無きインターネットの中に、政府や商業がどれだけ食い込もうとしても弾き返されるか、せいぜい小宇宙の片隅で無力にわめきつづけるだけにおわるというのだ。警察がを爆破予告するアホウどもを片っ端から摘み出し、Amazonが売上げを増やそうと広告メールを毎日のように送ってくる現代においては、こんな思想がつい10年前に有力であったなんてちょっと想像がつかない。しかし、次の文を読んでみるがよろしい。
インターネット??おそらく地球で最も見事な自己組織化の実例??はインターネット技術タスクフォース(IETF)を通じて、極めて分散化した形態で発達してきた。すなわち、90年代のサイバー空間では宇宙の真の支配者はフリーメーソンでもM&Aのスペシャリストどもでも、ベンチャーキャピタリストの連中でもなく、インターネットの技術的未来を創り、また見通すテックウィザードの自発的な組織であるということだ。
〔……〕
今や、IETFを特徴づける言葉はTシャツの文句として刻まれて不滅のものとなっている:「僕たちは次のものを排除する: 王様、大統領、投票。僕たちが良しとするのは次のものだ: だいたいの合意と動くコード」これらは次のように翻訳できる。「IETFでは、幹部会もロビー活動もカリスマ的なリーダーも僕たちの進む方向を決めることができない。けど、ちゃんと動いて、僕たちがうなずけるものがネットにあったなら、それが僕たちの方針となるんだ。」
「How anarchy works」(Wired, 1995年10月)より抄訳
これらのインターネット初期に見られた思想は、商業と政府がずけずけとインターネットに入ってくるに従って徐々に姿を消していった。しかし、ここで重要なのは、1990年代、インターネットに本質的に備わっていると思われていた自由や価値が今やその多くが消失してしまっているということだ。例えば、当局にとってネットにおける人々の行動を追跡するのは、1990年代では考えられなかったぐらい容易くなっている。具体的には、問題のIPアドレスの割り当て記録をプロバイダに尋ねれば、個人が特定できてしまう。警察が悪戯書きみたいな犯罪予告をいちいち摘発するなんてのは、インターネット初期の住人から見たらありえないことだったろう。だが、それが現在はごく当り前のことになってしまっているのだ。
ここから当然出てくる問いは、これが進んだらどうなるだろう?ということだ。警察がいちいち個別のケースについてプロバイダに問い合わせるのでは無く、全体をモニタリングしはじめたら?そうでなくとも、例えば検索エンジンにデータを提供させて(ちなみに、これについては2006年に主要な検索エンジンのいくつかが無作為に選んだ100万件のデータを政府に提供するという事件が起こった)、検索ワードとIPアドレスを結びつけて潜在的な犯罪者を洗い出し始めたらどうだろう?そのとき、私達はそれを当然と受け止めているのではないだろうか?
一方で、この種のネットへの国家権力の介入は必ずしも悪いことばかりではない。私達はその裏面として安全という利益を享受することになる。この時、最大の利益を享受するのが商業だ。警察の言う「サイバー犯罪」は減ってネット上の治安がよくなれば、商売がやりやすくなるというわけだ。現に、この支配の強化は政府自身の自発的な政策形成の結果というよりも、商業部門によって推進されている部分が少なくない。
これが顕著なのが、知的財産権の問題だ。この分野で主に活動しているのは業界団体だ。彼らはロビー活動を行い、著作権の保護期間を次々に延ばし、違法コピーへの対応では政府を叱咤し、また自ら違法コピーがらみの訴訟を乱発している(例えば、アメリカのレコード業界団体RIAAは2009年の4月だけで62件もの訴訟を起こしている(Recording Industry vs The People「Approximately 62 new cases filed by RIAA in April」より))。業界団体の対応が、この程度で留まっていると考えるのは余りにも楽観的だろう。例えば、ここ数年、一部のデジタル音楽の中にはその購入者の情報などが埋め込まれるようになったということが知られている。彼らのコントロール力は着実に高まりつつある。この商業部門の進展を後押ししているのは政府だ。頻繁なロビー活動に答える形で、アメリカでは数十年間でゆうに10回を越える著作権保護期間延長法が可決され、デジタルミレニアム著作権法は保護技術の迂回をも禁じた。海を渡って、イギリスに目を転じると、違法ダウンローダーの回線を切断する法案が用意されつつあったという(BBC NEWS「Illegal downloaders 'face UK ban'」(2008-2-12)。
これで何が悪い?と言う人もいるだろう。法律で認められた権利が、きちんと守られる。理想的じゃないか。
けど、状況は明らかに行き過ぎだ。例えば我々が今小説を書いたとして、さらに50年生きるとしよう。すると現行の著作権法において、この著作物はどれだけ守られるだろう?答えはおよそ100年、すなわち1世紀だ。その間、他の人は我々に連絡して許可をもらわない限り、自分で書いた挿絵を載せて公開することや翻訳して出版することはおろか、複製することすらできない。それで、一体何の意味があるのだろう?今から一世紀前といえば、伊藤博文が暗殺され、永井荷風が「すみだ川」を書き、中島敦が生まれた時代だ。そのころ書かれた作品のうち、現在まで読み継がれているものなどほんの一握りでしかないということを考えれば、現代の作品のかなりのが、この法的過保護の中で窒息していくだろうということは容易に想像できる。
しかも、彼らによる強力なコントロールが成立したあかつきには、これらの作品には事実上誰も手を触れられなくなるというわけだ。これははたして望ましいことだろうか?
読書会ではなぜか論点設定自体の妥当性が問題になり、用意した論点についてほとんど論じられなかったが、私には何が問題なのかさっぱり理解できなかった。一応、簡単に論点の正当性について述べておく。
第一に、本作のメインはもちろんP・バーク=デルフィの栄光と自滅にあるわけだが、その背景には明白に(少なくとも現在よりは)より自由でない社会が描かれている。それを示唆する記述としては:
……など
ポール・アイシャムもまた同様の認識をしている(だからこそ彼は反抗するのである)。以下、彼のセリフから引用。
やつらは全世界をプログラムしちまったんだ! 情報伝達の全面制御さ。やつらはあらゆる人間の心を電波の網でつかまえ、みんながやつらの見せるものだけを考え、やつらが与えるものだけをほしがるようにしておいて、みんながほしがるようにプログラムしたものしか与えないんだ??だれもそこへ割りこんだり、そこから飛びだしたりできないし、どこにもつかまえどころがない。
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア「接続された女」(朝倉久志訳, 早川文庫), p238
ここで、「接続された女」の世界におけるメディア(あるいは社会体制)と我々のとは何がちがうのか?という問いに対して「インターネット」と答えるのはそう的外れなものではないし、それについて論じるのも別段奇妙だとは思われない。特に、そのメディアこそが「接続された女」の世界へ通じる道である可能性があるとしたら。
第二に、論点というのは往々にして元の作品から離れるものである。この作品についてよく語られるフェミニズム的分析にしても、必ずしも作品からは明らかではない(これが一般的なのは単にティプトリー=フェミニズムという奇妙な定式のせいであると思う。しかし、そもそも、ティプトリーってフェミニズム作家なのか?だとしたら、「ビームしておくれ、ふるさとへ」とか「エイン博士最後の飛行」とか「マザー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンド」とか「ヴィヴィアンの安息」とかはどうなる?)。