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ハーバート・ジョージ・ウェルズ(Herbert George Wells, 1866?1946)
イギリスの作家。ヴェルヌと並んで「The Father of Science Fiction」と評されるが、その業績はSFのみに限られず、評論やノンフィクションの分野でも有名である。代表作はSFなら「タイムマシン」や「モロー博士の島」、ノンフィクションなら「Anticipations of the Reactions of Mechanical and Scientific Progress upon Human Life and Thought」や「The Outline of History」など。
本作は旧態依然とした社会体制からの解放の物語である。
この解放は大科学者ホルステンが原子力エンジンを1953年に実用化したことに始まる。このホルステン=ロバーツ・エンジンは革命的と言えるほどに安価な電力供給を可能にし、わずか数年で既存の動力を全て駆逐する。その一方で、この急激な変化は既存の経済や産業に大きな打撃を与え、この経済的混乱の最中の1956年、世界は全面戦争へと突入していくのである。この戦争に決着を付けたのは他ならぬ原子爆弾である。このカロリウムを原料とする原子爆弾は全世界の200もの都市に落とされ、ほとんどの国家は壊滅状態に陥ってしまう。そしてこの地球規模の破局の閉幕として、イタリアの片田舎で各国の指導者が集まり、世界政府の樹立を宣言する。ここまでで大体この物語の半分である。
この簡素なストーリーだけを読んだら「さぞ、その世界政府とやらは復興やら統治やらに苦労するのだろう、後の半分にはその苦闘と勝利の歴史が書き連ねてあるのだろう。」と思うことであろう。しかしながら、実際にはこの統一政府は困難らしい困難にほとんど遭うこともなく、いともたやすく新しい世界秩序を構築するのである。しかも単なる復興ですら一苦労であるのに、世界政府は20年足らずで世界をユートピアにしてしまうのである。具体的に見てみよう。世界政府が確立したユートピアにおいては、英語をベースとした国際語が通用し、世界法が施行され、世界規模の一般教育制度が実現し、暦や度量衡も統一されている。貧困と無知が横行した古い農場は一掃され、近代的で清潔な少数の人々が運営する農場で世界の食糧は賄われるようになる。この新世界を統治するのは終身の政治家からなる評議会である。この政治家は5年ごとに世界を10の選挙区に分けて行われる普通選挙によって、500人ずつ新たに選出される。変わるのはこうした制度的側面に留まらない:
世界中の人々が突然作り始めたのだ。最初のころは主に美術的な創作活動が盛んであった〔中略〕我々の大半が芸術家なのだ。もはやこの世界における活動の大部分は必需品の生産には向けられておらず、むしろその精密化や装飾、洗練に注がれている。
H・G・Wells「The World Set Free」より抄訳
ここまでくると、少し待ってくれといいたくなる。原子爆弾が発明され、その結果全面核戦争を招き国家が滅びる、ここまではまあよかろう。だが、それで世界政府が樹立され、理想郷が現実のものとなり、人々は労働から解放され今や創造的な活動に邁進するようになる……なぜ?単純に考えたら、このような変化には何の必然性もなく、「突然全ての国が戦争の無益さを悟って自発的に武器を捨て、世界に平和が訪れた」程度の現実味しかない。しかし、ウェルズはこれを一つの歴史的必然だというのである:
基本的に、ブリサーゴ評議会の仕事は、その速度を増して急速に発展していた人類の知識が与えた新たな足場に社会機構を打ち立てることであった。評議会は海難救助探索のように急いで招集され、そして難破船に突き当たったのだが、その船たるやまったく修復不能なものであったのだ。この場合の唯一の可能性は、これまで人類が非常に苦労して抜け出してきた農業世界の野蛮さに逆戻りするか、人類が確立してきた科学を新しい社会秩序の基礎として受け入れるかのどちらかしかなかったのだ。猜疑、ねたみ、排他主義、戦争といった古い時代にありがちな人間の性質は、冷徹な科学の論理が作り上げた新しい機器が持つ途方もなく強大な破壊力と両立することはできなかったのである。〔中略〕遅かれ早かれ人類はこの選択を迫られただろう。
同上。
注意して読むとここにはありがちな誤解がいくつかあることに気がつく。
一つ、仮に科学に根ざした新しい生活と古い野蛮な生活の対立があったのだとしても、ウェルズの時代にそのような対立に直面していたのはほんの一握りの人でしかなかった。そもそも現在ですら、世界の全ての人々が科学の恩恵を受けた生活をしているとは言いがたく、現にサハラ以南のアフリカなどに目をむければ、きちんと整備された鉄道や安定した電気供給といったものを獲得しようと悪戦苦闘している地域がざらにあるのである。数十年以上前となれば、いうまでもなかろう。
つまるところ、新たな社会を打ち立てられるだけの文明的基礎が全ての国や地域に存するわけではない以上、科学的な理想社会への大移行が起こったとしても、その移行は世界の一部の地域に限られることになる。もしウェルズが言うように「世界の広大な地域や幅広い階層の人々が、世界の中でも先進の集団と異なる文明段階にいるうちは、世界の真の社会的安定や人類全体の幸福といったものは存在しえない」ならば、やはり今日の世界においてもなお、本書に描かれたユートピアが実現する見込みはないのである。
二つ、世界はあんがいしぶとい。現状の世界がこのまま行けば崩壊するという考えに取り付かれるのは、インテリやアジテーターにとって職業病のようなものだと言ってもいいだろう。というのは、彼らは理念を明確に保持しているために、理想との対比において現実を過度に低く評価してしまいがちになるからである。このような人々の例には事欠かない。例えば、第二次対戦前には、ウェルズのようにこの古びきった社会体制はもう長くないだろうと考えていた者に加え、混血による社会の退廃を嘆く人種差別主義者どもや、共産主義社会への移行を心から信じる共産主義者がいたし、ドイツではちょび髭の元画家が同じような論法で民衆を沸き立たせていた。冷戦期には全面核戦争の恐怖が娯楽小説のテーマとなるほどに浸透し、技術革新によって何度も肩透かしを食らいつつも石油枯渇論は30年以上たったいまでも叫ばれている。そして、現在は地球温暖化に代表される環境問題が世界を揺るがしている。
これらの主張が全て、集団的パラノイアに過ぎないと言うつもりは無いが、少なくともウェルズの主張は過度なペシミズムであったと言って差し支えはなかろう。事実、当時の法制度や社会制度は、大規模な改修を何度も受けつつも、本書の執筆から80年以上たった現在まであらかた連綿と続いており、その破綻としての大戦争といったものは??いまのところ??起きてはいない。
しかし一方で、このような誤りにもかかわらず、本書の予言は実は正しかったのかもしれない。ただし、ウェルズが考えていたような数十年という短いスパンではなく、数百年という長期的な視点で見ればの話だが。例えば、予言の一つである国際語をとってみよう。この効率的な統一言語という思想は現在ではほとんど消えうせてしまったが、世界的に見れば言語の数は減少傾向にあると言われている。言語学者によってその予測の幅は大きくことなり、また一般にそれほど確かな予測とは言えないのだが、次の百年で半分になるといった予測も存在する。要するに、これらの傾向が今後数百年続いていけば、いずれ少数の国際語だけが残るのではないだろうか?同じことが農業についても言える。農業の機械化と効率化は、今やその速度を増して進みつつある。もしかしたら、西暦2200年には農業は人間の仕事ではなくなるかもしれない。
もちろん、このような変化はウェルズの描くような楽園を約束するわけではない。なぜならば、これらの流れを押し進めているのは主に、人類愛や科学的良識といったものとは無関係な「経済的要求」だからだ。ゆえにこの先にハクスリーの描くような「すばらしき新世界」が待っている可能性も十分にあり、どこに人類が行き着くのかは、結局はその時になってみないとわからない。そしてまさに、その遠い未来の可能性を書いた物の一つとして、本書は現代でもなお、意味を持ち続けているのである。
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