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著者:藤本(sage.fuji @ gmail.com)
公開:2009/04/22
良い翻訳とはいったい何だろうか?
高校の時ならこの問題に答えるのは簡単だった。原文べったりで、とにかく愚直に訳せばいい。そうすれば満点がもらえる。だが、実際に人が読むものを訳すということになると、こういう受験英語の逐語訳では通用しなくなる。そこでは、意味を正確にとらえた翻訳であって、しかも日本語としても流暢であることが要求されるようになる。だからこそ翻訳家というプロの職業がちゃんとあって、さらには、(それがどれほどのものかは知らないのだが)翻訳を専門に教える学校まで存在しているのである。
しかし、学校教育の呪縛というものは相当に強いようだ。まさに人が読むために出版されている翻訳書にすら、受験英語風のぎこちない訳文が散見されることからも問題の根深さがうかがえる。
ここで紹介する『新未来記』は、近藤真琴という幕末?明治期の人物が、オランダ語で書かれた『Anno 2065 ,een blik in de toekomst』と言う本を訳したものなのだが、これは学校で言う「和訳」とはまさしく対極にある翻訳なのである。何が「和訳」と違うのか言われれば、何もかもが異なると言わざるをえない。まずもって、原文と訳文がいちいち対応していないのは当然のこと、文があちこち勝手に省略されている上に、さらには近藤自身の手による小論評みたいなものまで付け加えられているのである。
本稿の目的はこの『新未来記』の分析を通して、受験英語における「和訳」とは全く異なった翻訳のあり方を示し、より深く翻訳について考えるための材料を提供することにある。なお、以下の「近藤訳」は、先輩がテキストに起こされた『新未来記』から抜粋させていただいたものであり、「参考訳」とは私がたまたま手に入れたドイツ語版の『Anno 2066, Ein Blick in die Bukunft 』から重訳したものである。この「参考訳」については、近藤真琴の訳文の特徴をよりよく示すため、かなり直訳に近い訳し方をしている。
『新未来記』は先ほど述べたように、非常に突飛な訳書だ。といっても無茶苦茶であるというわけではない。事実、後述するような意図的な改変は別として、『新未来記』には誤訳と呼べるようなものは比較的少ないように思われる。例えば、下に挙げた訳文の範囲内で間違っていると言えるのはせいぜい、ロジャー・ベーコン(近藤訳ではロジェルバーコ。原文はRojer Bacoなので、この読みが特におかしいわけではない)が幽閉されてそのまま死んでしまったとしている部分ぐらいであろう。これが明治維新以前に訳されたものであるということを考えると、近藤のこの言語能力の高さにはまったく恐れ入るものがある。
ここからわかるように、『新未来記』が突出しているのは誤訳・悪訳の類のためではない。この翻訳の最大の特徴は、「読みやすさ」と「分かりやすさ」のために徹底的に文章を改めていることにある。
まずは「読みやすさ」の点について見てみよう。驚くべきことに、『新未来記』は全体が調子よく音読できるように訳されている。実際に、本稿に掲載されている抜粋を声に出して読んでいただければ分かると思うのだが、だんだん読んでるうちに講談師の語りっぽくなってくる。続けて「参考訳」を読んでいただきたい。なんとぎこちない文章だろうか。ただ、これは手放しで称賛できるというわけではなく、その裏で犠牲になっている部分も多い。例えば、次の箇所を見てほしい。
(近藤訳)
蒸気の機械は数百の馬の力を弱しとし、便を伝ふる電信機は二千里外の友人と心を語るも難からず。谷を埋める鉄道は巨霊人すら舌を巻き、山を貫く穴道は項羽が如き偽りならず。写真の天画、気灯の光明分離の術の精妙なる、水には泳水装置あり。空には軽気の飛船あり。其他種々開明をあらわすものは多にぞある。(参考訳)
蒸気機関と電信、鉄道と小蒸気船、山々を貫くトンネル、つりばしとトンネル橋、写真とガス灯、化学における驚くべき進歩、望遠鏡と顕微鏡、潜水艇と気球、といったたくさんのものが様々にまじりあって私の頭の中を過ぎ去り、またこれらのものは一体となって現在と過去の間に存在する大きな違いをはっきりと実感させてくれるのだった。
原文は文明の産物を列挙しているだけなので、これを音よく読めるようにするのはまず無理だ。そこで、近藤訳では原文に無い文句を加えたり、いくつかの項目を省いたりすることで語調を整えている。「蒸気機関と電信」は「蒸気の機械は数百の馬の力を弱しとし、便を伝ふる電信機は二千里外の友人と心を語るも難からず」、「鉄道と小蒸気船」は「谷を埋める鉄道は巨霊人すら舌を巻き」といった具合だ。
こういった改変の影響は他にもさまざまなところに及んでいる。おそらく、独白的な部分はこういう流れる語り口に直しづらかったのだろう。『新未来記』においては、主人公が自問自答している部分などが全体的に改められた結果、原文の一人称の体裁が崩れてしまっている。また、声に出して読むことを考えると、ただ普通に原注を訳してもしかたないので、近藤は原注を次のようにして本文に編み込むのである:
(近藤訳)
原注又曰ふ、然れどもバートは其学を嗜むの余り、意想甚だ空に人工になし得べき境を越えたり。この書簡の中に空中飛行の器械も作る事を得べしとの辞あり。これ其人の意想の架空をあらわすべし
次は「分かりやすさ」について見てみよう。『新未来記』では、読者にとって理解しづらいと思われる文言については独自に解説を加えたり、またどうしても分かりやすく伝えることのできない部分ついてはバッサリ切り落としている。例えば、次の部分に注目していただきたい。原著のこの部分では、さまざまな科学史上の偉人を引き合いに出すことで、文明がいかに進歩したのかが描きだされている:
(参考訳)
ミュッセンブルークやグラーフェサンデ、ホイゲンス、ステーフィンのような人々??あるいはニュートンやガリレイといった、建物の礎石を置きながらも、その建物が実際どれほど大きな建物であるかをほとんど知らなかった人々でもいいのだが??がよみがえって、現代の機会工学の驚くべき成果物を詳しく調べることができたら、いかに驚いてその機械の中身に目を見張るであろうか。
しかし、忘れてはならないのは、この部分を十分に理解できるのは、これらの歴史的な偉人たちについて少なからず知識を持っている読者だけだということだ。もちろん、幕末の一般の人々にとってはミュッセンブルークやガリレイなど全く聞いたこともなかったことであろう。近藤は次のように訳すことでこの知識のギャップの問題に対処する:
(近藤訳)
手に取りて見ぬ古今の機械の学の礎をなしたる人に、今の世を見せなばさこそ驚かしめ。
乱暴だと言って怒る人もいるかもしれない。確かにかなりの荒技ではある。しかし、ここで原著者が伝えたいのは、「偉人たちが今の世の中を見たら驚くほど文明が発達した」ということであり、少なくとも、この要点だけは近藤訳に残っている。それに、このメッセージを読者に伝えるのに、これ以上の方法があるのだろうか?現代の訳者であったらこれらの人名にいちいち注をつけることで読者の知識を底上げするところだろう。しかし、調子よく音読することが前提になっている『新未来記』で、注をたくさんつけるのはあまりよろしくないし、またいちいち人名について説明していたら冗長にもなる。だいたい、原作者がここでミュッセンブルークやガリレイの名を出しているのは、それ自体が目的なのではなく、あくまで説明のための補助にすぎないのである。
こういう「分かりやすさ」のための改変の例は『新未来記』のいたるところに見られる。さらにいくつか具体例をあげると、「さもなくば一体どんな模倣者がその熟した果実を最初に総取りしてしまうのだろうか」という皮肉交じった物言いは省略されてるし、ベーコンの予言については「右の文の初にいうものは今の望遠鏡、顕微鏡、反射鏡等にて、其言の如くなりしを知るべく、後に言うものは汽車、汽船、吊橋等の出来たるにて、亦其人の能く後世を洞見したるを知る。」といったような解説が加えられている。また、主人公の意識が白昼夢に入っていくシーンでは「はや春の朝の淡雪と消えて、涼しき夏衣、錦を飾るもみじ葉の、時雨に染る四季の景色、様々の東西目に遮り」というはなはだ文学的な描写が挿入されている。これらの書き換えは明らかに、話の中軸から飛び出た枝葉を刈り取り、読者がつまずきそうな穴を埋めることによって物語の理解を促すという意図のもとになされたものである。
では、以上を踏まえたうえで、私達は『新未来記』をどう評価すればよいのだろうか。もっとも単純な評価は、原文無視の杜撰な翻訳だと切って捨てることだ。しかし、その評価とは反対に、近藤は訳文に非常に気をつかっている。上に述べたように、彼は原文を読んで、訳すべき箇所を取捨選択し、説明が足りないところは補ったうえ、さらにそれを日本語で調子よく音読できるように整えているのである。これはかなり頭を使う作業であったに違いない。ならば、なぜ近藤はわざわざそんな手間のかかる事をしたのだろうか。これは、近藤自身が「今之れを訳するに稗史の体に擬する者は、城山肥田君の嘱に依り、看客の倦まざらんことを欲してなり」と述べていることからも分かるように、読者を退屈させず、また理解を容易にするためなのだ。その意味において、『新未来記』はむしろ読者を明瞭に意識して訳された、丁寧な翻訳だと言えるのである。
もちろん、先に述べたことからも分かるように、問題点もかなり多い訳ではある。特に、一体どれがどの文の訳なのか分からないぐらい書き直されているのをみると、近藤の「翻訳」は限りなく「リライト」に近いといえる。だが、それでもなお、『新未来記』は原著の内容を当時の人々を伝える上で最も優れた「翻訳」だったのではないだろうか?そしてもしそうならば、一体、それ以上、何を翻訳に求めるべきなのだろうか?確かに、原著への忠実さこそ翻訳が従うべき第一の規範ではあるかもしれないが、しかし、ただ忠実さのみに耽溺していては、その本を翻訳するそもそもの目的を忘却する結果となってしまうのではないかと、私には思われるのである。
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