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[作者紹介]
オースン・スコット・カード(Orson Scott Card, 1951?)
アメリカ生まれのSF作家。1960年代にミュージカルや演劇の脚本を手がけはじめ、1977年に短篇「Gert Fram」と本作の元になったノヴェラ「エンダーのゲーム」を発表し、SF作家としてデビューする。代表作は「エンダーのゲーム」シリーズ。批評家としても活躍しており、その時に見せる根本主義者的な発言はしばしば論争を引き起こしている。
「天才を決定付けるのは生まれか環境か」という問題は古くから議論されてきており、遺伝学の誕生以来その議論の調子は一層激しさを増しているのだが、生物学がかくも発達した時代においてもなお、未だに決着を見ていない。現在の表立った議論としては、第二次世界大戦期の陰惨な出来事を踏まえて、若干、環境説に傾いているという具合であろうか。しかしながら、本書『エンダーのゲーム』は生まれが全てだと明言する作品である。
まず、この作品の背景となる社会システム自体が天才が生まれながらのものであるということを前提にして作られている。例えば、本作の世界には天才になると予期される子供にモニター装置を組み込んで適性を総合的に観察する仕組みが作られているし、バトルスクールという司令官選抜用の学校はわずか6才の時点の能力で入学の可否が判断される。また、当局が3番目の子供であるにもかかわらず特別にエンダーの出産を許可したのは彼が遺伝上、天才であると考えられたからなのである。
そして、事実エンダーは天才であったのだ。彼は記憶力や判断力といった知的能力はもちろん、身体能力をも含むあらゆる点において他を圧倒する。このことを示す逸話には事欠かない。彼は他人のプレイを見ているだけでゲームの攻略法を完全に解析し、初プレイの3本勝負で上級生を叩きのめす。上級生が生意気な下級生を痛めつけてやろうと襲ってくれば、仲間を指揮して撃退する。バトルスクールはバトルゲームと呼ばれるチーム競技を中心軸として動いているのだが、彼はこのゲームにおいても天賦の才能を発揮する。まずはプレイヤーとして頂点を極めたのち、次はリーダーとなって未熟なチームを3ヶ月で鍛え上げ、たとえ二つのチームが同時にかかってきても勝利を納めるという無敵のチームに仕立て上げるのである。
しかし一方で、エンダーは単に天才であるだけではない。彼は同時に善良で無垢な心の持ち主としても描かれている。実際に、彼は何か揉めごとが起こってその争いに勝つたびに「僕は誰も傷つけたくなんかないんだ」と叫んで、良心の呵責に苦悩するのである。本作は、言ってしまえば、この勝利と苦悩の繰り返しでできている。すなわち、1.エンダーは理不尽な状態に置かれる、2.天才性を発揮してこの困難に打ち勝つ、3.自分が争いに加わって勝利したことに心理的折り合いを付けようと悩み苦しむ。
この良心の問題は、彼が相手を徹底的に叩きのめした場合に顕著になる。「徹底的に叩きのめした場合」とは本作でいえば、6歳の時にいじめっこのスティルスンを蹴り殺したこと、同様にバトルスクールで殺意をもって挑んできた上級生のボンソーを返り討ちにして殺したこと、そしてこの物語のラストにおいて地球外生命体のバガーを種ごと殲滅したことの3つがそれにあたる。注目すべきはこの3つのどれについても、エンダーの心の中での苦闘は別にして、彼は決して世界や社会からは断罪されないということである。物語から一歩引いて考えてみると、特に最初のスティルスンについてはどうにも割り切れないものが残る。確かに彼はエンダーをいじめる連中の元締めではあったが、だからといって殺しても許されるのだろうか?
本作を注意して読めば、この問題には先に述べたエンダーの特質に応じて、二つの答えが与えられているということに気がつく。
第一の答えは、エンダーは人類を救うと決まっているが、スティルスンやボンソーはそういう存在でないということにある。カードの描く世界では、「生まれが全て」なのでここに難しい問題は存在しない。エンダーが天才であって人類の希望であることが分かっているならば、そういう星の元に生まれていない瑣末な連中を一人や二人殺したところでなぜ罰する必要がある?実際のところ、ボンソーのケースにおいては、当局はボンソーの死を予期しながら、エンダーをより良き司令官にするためだけに問題をあえて放置したのだ。もし仮に、逆にボンソーがエンダーを殺していたらボンソーは縛り首に処せられていただろう。
第二の答えは、エンダーは完全に善なる心においてこの残虐な行為を為したということにある。もっとわかりやすく述べれば、エンダーは善良な心を持って殺人/ジェノサイドを行ったので、その殺人/ジェノサイドを非難することはできないということである。この解釈は決して本作を曲解して得られたものではなく、実はまさにこの理屈による免罪こそが本作(とその続編)の主題なのだ。この点を詳細に検討して鋭い批判を加えているのが、John Kesselによる本作の批評「Creating the Innocent Killer」である。少し引用してみよう。
「エンダーのゲーム」を通して、読者は何度もキャラクターの行為を行為の結果(仮にその結果が死であったとしても)ではなく、その行為を行った意図によって裁くように促される。これは「死者の代弁者」においてエンダーが主張することである:「死者の代弁者はたった一つの教義しかもたない。すなわち、善悪というものは完全に人の動機の問題であって、その行為の問題では決してない。」
この教義はエンダーのゲームでは成文化されているわけではないが、あらゆる行為に内在している。
John Kessel「Creating the Innocent Killer」より抄訳
このことがよく表れるのは、ピーターとエンダーが比較される場面においてである。単純に行為だけを捉えれば、エンダーは人殺しであるし、ピーターは残虐な虐待者であって、やってることにそう変わりはしないのだが、本作では両者はその心理的態度において決定的に異なるということが繰り返し強調されるのである。Kesselも一つの場面を引いてこのことを指摘する。
グラッフとヴァレンタインの間で繰り広げられる、ある長いシーンにおいて、ヴァレンタインは必死になってこう叫ぶのだ:「エンダーはピーターと似てやしないわ!」
「私はピーターと似ているかもしれない。けどエンダーは違う。ちっとも似てやしないのよ。これまで何度も何度もあったことなのだけど、私はエンダーが泣いた時にこう言ってあげたの、あなたはピーターと似てはいない、あなたは決して人々を傷つけることを好んでやしない、あなたは優しくて善い子で、だからピーターとは全然似てないの、と。」
「そして、それは真実なのだ。」
〔……〕
「ええまったく、これは真実なの。」(p.162)
ヴァレンタインが必死になるのも、グラッフがこのことについて彼女に尋ねるのも、二人ともエンダーがピーターと同じくらい??実際にはピーターがこれまでやった事がないほど--暴力的な行為を行ったということを認識しているからだ。ピーターとエンダーは、彼らが何をするかではなく、何であるかという点で異なっているのである。ピーターは人を傷つけるのを楽しみ、エンダーは忌み嫌う。エンダーの行為が性格描写と矛盾するように見えるものであったとしても、彼は優しく、善良でありつづけるのだ。
同上。下線は原著者。
これらは、なぜエンダーが殺人やジェノサイドの後で苦悩する様子がしつこく描かれるのかを説明してくれる。すなわち、エンダーの心が善良であることを証明しさえすれば、エンダーを自らの行為の非道徳性から解放してやれるのである。Kesselの言葉を借りれば、エンダーは「無垢な殺人者」に、バガーの殲滅は「罪なきジェノサイド」になるのである。
ここまでくると、『エンダーのゲーム』の本質が見えてくる。常識的に考えれば、少なくとも、エンダーは気絶して無力になった相手をさらに追撃して殺すといったようなことはすべきでなかったのだし、他の知的な種族を滅ぼしてしまったということについてもなんらかの責めを負うべきであろう。しかしながら、カードはこの責任を拒絶し、天才性と純粋さをひたすら強調することでエンダーに対する批難を封じ込めようとする。象徴的に描かれるスティルスンやボンソーの残虐さ、ずっと後になってようやく彼らがエンダーによって殺されたということが読者に知らされるという構成、幼い子供がいじめられているのに誰かが助けにくる可能性すら無いという理不尽な状況、そしてゲームだと完全に思い込んでバガーを殲滅したという設定などは全て、エンダーの罪を軽減してみせ、読者にその正当化を受け入れさせるためのギミックに過ぎない。
この作品に見られるカードの論理の問題点は、これを現実に移してみたときにより一層明確になる。例えば、ある独裁者が自分が粛正した人々に思いをよせ、「なぜ私に歯向かうのだ」と苦悩の叫びをあげ、彼らの気持ちを代弁する本を書いたりしたら、はたして彼は免罪されるのだろうか?その独裁者の苦悩がいかに心からのものであったとしても、これで彼が許されてしまっては、釈然とせぬのはまさにその迫害にあった者であろう。我々は、本書のいたるところに見られる、次のようなエンダーの変化をよく吟味しなくてはならないのである。
事を完全に終らせる唯一の方法は、ボンソーを、恐れのほうが増悪よりも強くなるのに十分なほど、傷つけることだ。
だからエンダーは背後の壁にぴったりとよりかかり、それから跳びあがって両腕で突き離れた。彼の両足は、ボンソーの腹と胸に着陸した。エンダーは空中で横転して、両爪先と両手で着地した。くるりととんぼ返りしてボンソーの下を滑走し、そして今度、上向きにボンソーの股間へと蹴りつけたとき、彼は猛烈に、そして確実に強打した。
〔……〕
エンダーは泣きはじめた。仰向けに寝て、なおも汗と水でびっしょりぬれたまま、喘ぐようにしゃくりあげ、涙が、閉じた眼蓋から泌み出てきて、顔面の水気の中に消えていった。
「大丈夫か?」
「ぼくは彼を傷つけたくなかったんだ!」とエンダーは叫んだ。「なぜ彼は、ただ、ぼくをほっといてくれなかったんだ!」
オースン・スコット・カード「エンダーのゲーム」(野口幸夫訳, 早川文庫), p346-349
まとめよう。『エンダーのゲーム』の世界は極めて恣意的にできていて、それは明確にエンダーがどんな困難があっても負けない先天的な英雄であるべく、また人殺しを為しつつも純粋な存在でありつづけられるべく設計されている。そしてカードの論理によれば、そのような本質的に特別な存在たるエンダーのためなら他者を犠牲にすることは肯定され、加えてただ善良な心を持っているというだけでエンダーの行為の道徳性は全く問題にされなくなるのである。我々は、かくのごときカードの論理に流されるのではなく、自らの論理でもって物事を検討していこうではないか。さもなければ、我々は極めて残酷な行為をも不合理な理由で正当化してしまいかねないのである。
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