「HORIZM34」は当研究会の会誌「HORIZM」の第34号です。
今年からサイズをB6に変え、カバー(画像)まで付けて刊行し、より本格的な会誌を目指しました。
本誌では、「特集:SF者追悼」と題して、二〇〇八年一月から二〇一〇年五月にかけて亡くなったSF関係者の追悼を、書評やエッセイといった形で著し、その他、部員による創作短編を載せています。
特集で取り上げたSF関係者は、アーサー・C・クラーク、今日泊亜蘭、ロバート・アスプリン、野田昌宏、アルジス・バドリス、トマス・M・ディッシュ、バリントン・J・ベイリー、マイクル・クライトン、美苑ふう、フィリップ・ホセ・ファーマー、伊藤計劃、J・G・バラード、栗本薫、フィリス・ゴットリーブ、ケイジ・ベイカー、ロバート・ホールドストック、クリストファー・アンヴィル、柴野拓美、ウィリアム・テン、浅倉久志、佐藤史生、井上ひさし、の22名(敬称略)。
創作短編では、ストレンジ・フィクション、バトルアクションSF、ハードSF、スペース・オペラ、中国古典風SF、ユーモアSF、ロマンスSF、とジャンルのバラバラな7本を掲載。しかしどれもメタ的な要素を持った、時代の最前線を行く作品群となっています。
見本として、伊藤計劃氏に対する追悼文と、今回の創作短編の中で最も短かった作品であるストレンジ・フィクション「ウドゥエスオオゼミ入りの薬用酒」を載せましたので、ご興味のある方はぜひお読み下さい。
人は死ぬ。しかし死は敗北ではない。
かつてヘミングウェイはそう言った。ヘミングウェイにとっての勝ち負けが何だったのか、寡聞にしてわたしはそれを知らないが、その言葉が意味するところは理解できる。人間は物語として他者に宿ることができる。人は物語として誰かの身体の中で生き続けることができる。そして様々に語られることで、他の多くの人間を形作るフィクションの一部になることができる。
そしてわたしは作家として、いまここに記しているようにわたし自身のフィクションを語る。この物語があなたの記憶に残るかどうかはわからない。しかし、わたしはその可能性に賭けていまこの文章を描いている。
これがわたし。
これがわたしというフィクション。
わたしはあなたの身体に宿りたい。
あなたの口によって更に他者に語り継がれたい。
伊藤計劃「人という物語」〈WALK 第57号〉
私事で恐縮だが、少し僕の祖父の話を聞いて欲しい。
二年前、一人暮らしの僕の祖父は肺炎をこじらせた。部屋で死にかけていたところを大家さんに発見され、大家さんは病院に電話しようとした。「家族に迷惑をかけずに死にたい。死なせてくれ」と祖父は主張したが、当然そんなことは社会的に無理な話であって、祖父は病院に運ばれた。祖父は病院で錯乱し、「家族に迷惑はかけない」と言いながら、暴れ回った。そしてようやく祖父は、元気になった。
良かった、その時は皆がそう思った。
しかしその一年後、祖父は認知症になった。病院に連れていって薬をもらい、老人ホームに入ってもらって規則的な生活をしてもらうと、驚いた事に症状は一気に回復した。元気になった祖父はしかし、健康的な生活を嫌がった。好物のせんべいを自分で好きなだけ買う事を許されると、糖尿の数値は一気に上がり、徐々に目が見えなくなり、認知症の症状が再発し始めた。
我慢して長生きするより「ぬれせん食って死ぬ方がいい」というのが祖父の主張であり、祖父は今も好きなせんべいを頬張りながら緩慢な自死の道を突き進んでいる。
いったいこんな話で僕は何を言いたいか。それは、現代が自分の死に方・死ぬ時間・死ぬ場所を選べない時代になってきているという事だ。病院で治療しながら死んでゆくのが当たり前で、気軽に自宅で死ぬことなんて許されない。
病気になった老人の体はもはや本人が所有することはできず、ヒトに所有されることになる。老人ホームによっては、自分の金も持てない、せんべいも買わせてくれない、好きな時間に寝られない、そんなところがざらにある(もちろんこれはある程度仕方のないことではあるけれど)。
そしてそれは老人だけの話ではない。
例えば、二〇〇八年に始まったメタボリックシンドロームの特定健診制度では、中高年の健康保険加入者に義務で健診を受けさせ、メタボおよびその予備軍と判定された者に保健指導を行い、五年後にまだメタボな人には財政的なペナルティを課す、といったことが決まっているようだ。(そして厚生労働省はこれにより医療費二兆円を削減するつもりらしい)
ミシェル・フーコーによると、十八世紀の監禁ははみ出し者の排除であったが、十九世紀の監禁の目的は取り込みであり規範化であったという。僕が思うに、今の時代の監禁は、もっと優しく広く浅く透明な、蜘蛛の巣のような監禁(=ごく一部の医療)になっているのではなかろうか。
医療というのは、使い方を間違えると一種の暴力/権力になってしまうことがある。マイケル・ムーア監督の『シッコ』を観ると、日本とは縁遠いような酷い状態のアメリカ医療制度に唖然とさせられるが、日本でも徐々に、それと同じ力が違う方向を向いて伸びてきているのを僕は感じる。
前置きが長くなったが、伊藤計劃の『ハーモニー』は、そんな話だ。
そこに描かれている世界は、誰もが互いを気遣って、人が完璧な医療を受けざるを得ないユートピア。自分の身体は自分だけのものではない。だから健康から逸脱することは許されない。そんな倫理が最上に置かれた優しい社会。主人公はそんな社会に疑問を覚える。
『フーコー・コレクション6 生政治・統治』の、社会医学の誕生という章には、まさに『ハーモニー』を思わせる話が載っている。
「不衛生な場所の視察、予防接種の確認、病気の記録などは、じつは困窮した社会階級を監視することが目的だったのです。まさにこのような理由から、保健所がおこなっていたイギリスの医療管理は十九世紀後半に、民衆の反発や抵抗という激しい現象や、医学に反対する小さな暴動を引き起こしたのでした。」
「十九世紀にあらためて出現した宗教グループの目的は医療化と闘うことであり、生きる権利を要求し、みずからの要求にしたがって病気になり、養生し、死ぬ権利を主張することでした。」
以上の文章を見て頂ければ分かるように、『ハーモニー』は、このミシェル・フーコーが晩年に提唱した概念「生政治(biopolitique)」という概念を極限まで推し進めていくという思考実験であったと言うことができるだろう。
この作品の実験らしさというは、作者がこの作品で「自分自身の意見」を述べていないというところにある。
作中で執拗に述べてきた問題点は結末に至って突然肯定され、それが問題点だという見方がひっくり返される。
このラストに首を傾げる人も多いだろうが、僕はここに、伊藤計劃の本当の凄さが隠れていると思う。
この部分によってこの作品はディストピアSFでも、ユートピアSFでもなくなってしまうのだ。我々はこの作品をどう解釈すべきなのか分からなくなってしまう。
このラストには、言葉という嘘がある。たぶんこの作品での「意識」という言葉は、我々が使っているような、そして想定するような意味での言葉ではない。この小説が主人公の報告である以上、ラストは嘘にしか成り得ない。その「意識」は能動的なものに限った意識であり、それ以外の意識の形ではないのではないか。
こうして読者は結末に至り、小説自体を信じることができなくなる。
こんな大技を駆使してまで伊藤計劃が伝えたいこととは、いったい何だったのか。
僕はそれを、答えからの逃避なのではないかと思う。
AかBか。現代社会はいつも人間に選択を迫ってくる。しかし、二つのどちらにも決めないこと、それが大切なのだと伊藤計劃は言いたいのではないか。
これがユートピアなのか、ディストピアなのか、常にどちらの意見もあるという事を忘れないこと。ただ単に、片方の意見が正しいと決めつけることなく、問題を保留すること。答えの出ない問題に、答えを出さないこと。
あえてその答えを出した結果を描き、読者にそこで生じる違和感について考えさせることで、伊藤計劃はそれを表現しようとした、と僕は考える。
こんなユートピア/ディストピア小説は、おそらく他に類を見ない。(ユートピアSFではないものの、アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』のラストはこの作品に通ずるものがあるが、『幼年期の終わり』が客観に徹しているのに対し、『ハーモニー』は主観をラストで間主観的にしているのが印象的な相違点である)
答えを出さない、というのは、フィクションだからできることであるとも言える。
しかし主人公たちの苦しみは、フィクションではなかった。それは伊藤計劃が自らの病死をもって突きつけた自分の文章の正当性であり、この小説が傑作であるのは、作者の死があってこそなのである。(例えばもし僕が「死にたいって言っても許してくれない時代はヤバい」と主張したとしても、「お前に死ぬ気持ちが分かるのか。命は大切にしないとダメだ」と取り合ってもらえないだろう)
癌と闘いながら書いた『ハーモニー』。その文字列、そこに描かれた感情が、ただの想像力の産物だなんて、誰にも言えなくなった。主人公たちの悩みに嘘はなく、それは現実の問題なのだと感じることで、この小説は虚構を超えて恐るべき強度を獲得する。
伊藤計劃。それは、死と引き換えに最強のリアリティを手に入れた作家。自分を物語に置き換えて、物語を現実にするという一つの計画。そしてProject Itoは、自身がメタフィクションとなって完結を迎えた。
最後に、伊藤計劃が病気と闘う苦しみをすべて注ぎ込んだようなノヴェライズ小説『メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット』から、三つ言葉を引用して、本稿を終わりにしたいと思う。
「世界は苦痛に満ちていた。その愛しき苦痛こそが生命なのだ」
「世界を変えることではなく、ありのままの世界を残すために最善を尽くすこと。他者の意思を尊重し、そして自らの意思を信じること。それがあんたの意思だった」
「人がまさに死ぬそのときに語ったことは、単なる言葉ではない。それはぼくという存在に根を張って、未来に向け枝を伸ばしてゆく生命の一部なのだ」
片づけが済み、やっと一息つけるようになった頃には、日は大分暮れていた。私は最後の仕上げに丸テーブルを部屋の中央に置き、コンビニから買ってきた握り飯とサンドイッチの包みを開けた。香ってきた匂いは決して香ばしいとはいえないような香りであったが、空腹だったせいもあり、私の手は勢いよくそれらを掴み、口内へと放り込んだ。その動きに連動し、いくつもの平らな歯がにちゃにちゃと米をつぶし回った。握り飯は最初、形が変形する程度だったが、腺から放出された唾液に揉まれるうち、半ば液体状になり、やがてドロリドロリと滑り台を滑っていくかのように食道へと向かった。
……やっとのことで満腹中枢が反応したようだ。私の手は止まり、私の体は寝椅子に倒れこんだ。今後四年間の大学生活の中心となる部屋は小さいが、文句は言えない。むしろ、感謝すべきだろう。感謝、そう、感謝だ。
「感謝」。私は、そう声に出してつぶやいた。「感謝感激雨あられ」。もう一度、つぶやいた。今度は、自然に笑い声が出てきた。腹の底から出る、屈託のない笑い声だ。その笑いにつられてもう一つの笑いが、更にもう一つの笑いが出た。笑いの連鎖爆発は止まらず、かれこれ十分ほど笑い続けたのち、私は一つの決断をした。この笑いの連鎖を終わらせてはならない、そのためにアルコールを摂取しようと。
「そうだ、アルコールだ、何を忘れてたって、アルコールを忘れていたんだ」。もはや、つぶやきとはいえないような音量だったが、気にするものは誰もいなかった。私は家を出ると、近くの酒屋に転がり込んだ。このようなめでたい日に飲む酒は、大量生産されたコンビニのものより由緒正しいアルコールのほうがあっている気がしたのだ。さて、何にしようか。日本酒、焼酎、梅酒……いや、今日という日にそのようなありふれたものを飲むことは冒涜的といえるほどの犯罪だ。なにか、なにか神秘的なアルコールはないものか……。なにか、なにか……。
瓶が並ぶ迷宮をかき分け、ついに私はある一つの大瓶に出会った。濃い、緑の液体のなかに拳ほどの大きさの、何かがある。足が何本も生えている、何かだ。ラベルをみると「ウドゥエスオオゼミ入りの薬用酒」と書いてあるが、中に入っているものはセミとは似ても似つかない、どちらかといえば肢を極端に長くしたヤドカニに甲虫の羽根を付けたようなものだった。私はむんずと大瓶を掴むと、カウンターへと運んだ。店員に値段を聞くと、予想通りかなりの高額だったが、私はためらうことなくその金額を払い、新居であるアパートへと意気揚々と戻って行った。
扉を閉めると、私は早速祝杯をあげた。「乾杯!乾杯!乾杯!」と大声で怒鳴り、薬用酒を体内へと注ぎこんだ。アルコール度数は意外なことにそれほど高くはなかったが、これまでに経験したことのない味とかすかな生臭さが相まって、新鮮な風味を構成していた。一杯、二杯と杯を重ねるごとに、天地は揺れ、独り言はますますペースを速め、自分でも聞き取れなくなってきた。どうやら、酔ってきたようだ。そろそろやめなければ。水だ、水にチェンジしよう。水?
それはどこにあるのだろう、そうか、台所だ、台所にたどり着くためにはどうすればいいのだろうか。私はこの部屋のことをよく知らない。なぜならば、私はここに今日来たばかりの新人だからだ。だから台所までの道筋が画かれた地図を手に入れなければ。地図、地図をつくるためには測量計がいる、すなわち、三角定規、鉛筆、電子辞書、時計などの文房具であり、あれ、違う、この三つの中に偽物があるはずだ、一体どれだろう、そんなことを知るために人類は存在しているのか、だとしたら、ああ、なんと惨めな存在だろうか……いや、私は、何を、何を考えているんだ……だが、私は全くもって正常なのだ、この混乱している部分は私ではないのかも……だとしたら……オオ山椒魚の誕生日パーティーには行きますか……?
私は、部屋の中で目を覚ました。五体は満足だった。だが、安堵感もままならぬうちに新たな危険が迫ってきた。頭痛が頭の内部に攻撃を仕掛けてきたのだ。私は怒り心頭に達し、手で後頭部を思いっきり叩いた。一回、二回、三回、四回目でやっとつかえが取れ、頭痛は、鼻と口からジョロリジョロリと出てきた。だが本当の危険はこれからだった。頭痛の奴め、まだ懲りないと見えて私の足にまとわりついてきたのだ。私はそいつを蹴り飛ばし、手近にあったパソコンで思いっきり引っぱたいた。頭痛は怯み、体を後ろのほうへと引いた。私はその隙に隅にあったヒーターのスイッチを押して、頭痛に押しつけた。頭痛は体全体を動かしなんとか逃れようとするが、奴の大きさじゃあヒーターを押しのけるなんてできっこない。案の定、だんだんと抵抗する気配もなくなり、ついには完全に動かなくなった。
危険は去った。頭痛との戦いに勝ったのだ。私は勝利の笑みをぶちまけて、すくりと立ち上がった。そして、窓を開け、服を脱ぎ、新しく生えたばかりの羽根を伸ばし、大空へと旅立った。
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