[読書会要旨]
本作「理解」では言語進化の過程が難解に書かれているが、それらのアイデアは全て独特なものというわけではなく、他の作品と似通っている部分もある。またその発想自体にも異論がいくつかある。今回の読書会メンバーの大半はこういった言語は作ることができないと考えているばかりではなく、好ましくないとも考えている。
テッド・チャン(Ted Chiang,1967〜)
ニューヨーク生まれ。1990年の「バビロンの塔」でデビューし、同作でその年のネビュラ賞を獲得する。続いて1991年に「ゼロで割る」と本作「理解」を発表。その後「あなたの人生の物語」(1998)でネビュラ賞を受賞し、「地獄とは神の不在なり」(2001)はヒューゴー賞・ネビュラ賞・ローカス賞のトリプルクラウンに、さらに最新作の「The Merchant and the Alchemist's」(未訳)はヒューゴー賞・ネビュラ賞のダブルクラウンに輝いている。この18年でわずか11作品を発表したのみという寡作な作家だが、その代わりいずれの作品も高い評価を受けていて"はずれ知らず"の作家として知られている。
コンピューター・グラフィッカーのレオン・グレコは事故で神経組織に大きな損傷を受ける。しかしまだ実験段階にあるホルモンK治療によって奇跡的に完治を遂げ、さらには治療の副作用として彼の知能は大幅に増大することになる。一躍天才の域に達したレオンは、彼を実験体として手元に留めておこうとする医師や当局を嘲笑うかのように翻弄し、ホルモンKのアンプルを奪取しつつ逃走する。潜伏先での度重なるホルモンKの接種によって彼はついに人類を超越した知能を獲得し、人類に大きな変革をもたらしかねない壮大な計画に着手するが、彼の前にもう一人のホルモンK接種者であるレイノルズが現れる。
本作「理解」はいわゆる超知性ものですが、このジャンルの通例として、(特に後半部分の)内容は容易には理解しがたいものになっています。特に本作では言語改良が知性の進歩過程を貫くひとつの軸として語られ、ゲシュタルト、メタプログラミングといった難解で複雑な概念が次々に飛び出てきます。少し引用してみましょう。
わたしは知る。神がひとことで混沌から秩序を創造したごとく、わたしはこの言語で自分を改新する。これは超自己記述であり、自己編集だ。思考を記述できるのみならず、それ自体のすべてのレベルにおける働きを記述し、変更することもできる。陳述の変更が全文法の調整をもたらすこの言語をゲーデルがみれば、なんといっただろうか。
テッド・チャン「理解」(朝倉久志訳, 早川書房, 2003年) p112より
イーガンと並び評せられるテッド・チャンのことですから、もちろんこれらの記述にも十分な理論的足場が存在しているのだろうと思いますが、何度読んでも靄に包まれたような感じがしてなりません。今回、本作を課題作に選びましたのは、この難解な言語進化の記述、特にその言語改良という発想を切り開いてやろうと考えたからであります。
わたしは新たな言語の考案にとりかかっている。在来の言語は、その限界に達してしまい、いまはさらなる進歩の試みをくじく種になっているのだ。在来の言語は、わたしの必要とする概念を表現する力を、その固有の領域内にすらもっておらず、不正確であつかいにくい。
同上 p99より
近代以前の数学書なんかを見ると驚くのですが、現代の意味でいう数式というもののが全く出てきません。例えば"y=2x"というような簡単な記法でさえ、17世紀になってようやくデカルトが確立したもので、それ以前はラテン語などをないまぜにしてなんとか数式を表していたのです。デカルト以前のおよそ2000年にわたる数学はいわば非効率な記述法という足かせの元にあって、公理的集合論、微積分、リーマン幾何学、そういったものの多くはこの足かせが取り払わられた後に誕生したものでした。
この事実を見ると、"日常言語も改良の対象となりうる"という発想もそう簡単には否定できないように思えます。例えば、20世紀初頭の数学者であり言語学者でもあるL・ホグペンは一般用数学教科書の「百万人の数学」(1938年)で次のように述べています。
数学のことばが日常のことばとちがうのは、数学のことばは、元来合理的に計画されたことばだからである… はなはだ奇妙なことだがことば以外の他の社会的規約を合理的に計画する必要があることにたいしてはもっとも敏感な人々が、往々にして合理的、国際的なことばを想像する必要があることについては案外鈍感である。
L・ホグペン「百万人の数学」上巻 (今井武雄訳, 筑摩書房, 1969年) p20-21より
現にSF作家はこの発想を最大に利用し、"知性が発達すれば、より効率的な言語が出現する"という考え方は一つの古典的ガジェットとなりました。ただ正確に言えば、この"より効率的な言語"というのは、そのほとんどが短縮された言語を指しています。例えば、このガジェットを利用した古典的作品として、ポール・アンダーソンの「脳波」(Brain wave,1954年)があります。この作品は"地球上の全動物・人類の知性がある日突如として倍増する"というもので、その中で新しい言語が次々に開発されて、それにあわせて既存の言語もひたすら短縮されていきます。
戸口に腰掛けていた二人の男のそばを通りすぎたとき、あたりの静けさに、思わずその会話が耳に入った。
「貧弱な美学ーー変化」
頻繁に動かす手。
「再会」ためいき。
「否定する。大宇宙、自我の滅却。エントロピー。人間の意義」
ポール・アンダーソン「脳波」(林克彦訳, 早川書房, 1978年) p229より
これは「理解」の状況とよく似ています。(実は「脳波」自体が「理解」にかなり似た作品です。一例を挙げれば、"発達した知性による、より高度な肉体のコントロール"というアイデアも「脳波」に登場します。)
レイノルズが口をひらき、短く静かに五つの語をならべる。それはいかなる詩の連にもまして豊かな含蓄をもっている。各語が論理的足がかりを提供するので、わたしは先行の語が内在する意味を引き出して昇っていくことができる。結合した五つの語が示すのは社会学に関する革命的洞察の要約。
テッド・チャン「理解」(朝倉久志訳, 早川書房, 2003年) p122-123より
ここでは、"より簡潔な言葉でより多くの情報量"というのが一つの進歩の象徴とされ、両作品の共通項となっています。
しかし、このように高度に設計された言語は必ずしも良いものとして扱われているわけではありません。実際に、ジョージ・オーウェルの「1984年」(Nineteen Eighty-Four ,1949年)ではニュースピークという効率的で合理的な言語が思想弾圧の手段として構築され、異端的な思想を表現すること自体が困難になりつつあります。
ニュースピークは英語の文法をごく簡便にし、曖昧だったり重複していたりする単語を削っていったものです。語彙の削減に伴い反逆的な単語(例えば"民主主義"や"正義")は積極的に廃棄され、そのまま留用された言葉も曖昧だったり不都合だったりする語義を持つ場合はその意味を制限されるようになります。例えば、freeと言う言葉は単に"〜から離れている。〜がない。"という意味で使われて、"政治的自由"や"信仰の自由"といった用法は排除される、という具合です。
その一方で、言葉に対する概念の詰め込みも行われます。
例えばザ・タイムス紙の社説Oldthinkersunbellyfeelingsocといった典型的な一文を考えてみよう。これをオールドスピークでなるべく短く言い替えると次のようになるであろう。
Those whose ideas were formed before the Revolution cannnot have a full emotional understanding of the principles English Socialism.(革命前に思想を形成された者はイギリス社会主義の諸原則について十分な感情的理解を持つことはできない)。しかしこれとて適切な翻訳だとは言い難い。先ず第一に、先に引用したニュースピーク文の意味を充分に把握しようとすれば、イングソックの意味するものは何かという明確な概念を持たなければならないであろう。しかも、イングソックについて完全な教育を受けた者だけが、bellyfeelという一語の持つ迫力を全面的に理解しえるのである。
ジョージ・オーウェル「1984年」(新庄哲夫訳, 早川書房, 1972年) p400より
「理解」では単一の文字が高度に洗練されたゲシュタルトを表現するのと同じ様に「1984年」では単語が複雑な思想を体現するようになります。唯一異なるのは前者が思考を推進するものであるのに対し、後者が逆に制限するものであるということです。しかし、両者の手法は全く同じものです。
また、オーウェルは言語の短縮自体が専制体制に特徴的なものだとも指摘しています。例えば、ナチスの"ゲシュタポ(Geheime Staatspolizei)"やソ連の"コミンテルン(Коммунистический Интернационал)"、旧東ドイツの"シュタージ(Staatssicherheit)"など。
さらに、このような形の言語進化自体を否定している作品もあります。ロバート・ソウヤーの「ターミナル・エクスペリメント」(The Terminal Experiment, 1995年)です。ソウヤーは私たちの言葉や文の長さは、それを話す合間に呼吸しなければならないという制約のために短くなっているのだと説明します。この作品には人間の精神のシミュレーションが登場し、最終的に超知性を獲得するのですが、知能的・肉体的制約のないシミュレーションの話す言葉の一文一文は長くなっています。
これは歴史とも一致します。人類は最初に伝達手段として数種のうなり声をあげられるようになってから何万年もかけて現在の複雑で冗長な言語体系を確立しました。同様に、2歳児は単純な音声でその望むところを全てを伝達しますが、精神と発声器官の発達につれて自由に言語を操るようになります。経験的には知性の増大につれ言葉は短くなるどころか、それとは全く反対の方向を向いています。
a)効率的で合理的に設計された言語というものは進歩を意味すると思いますか?
b)そのような言語がこの先普及する可能性はあると思いますか?
c)仮にそのような言語が普及してきたとしたら、積極的にそれに乗り換えようと思いますか?