2006/3/17
レポーター:向井
シャナは何故メロンパンが好物なのか?

文責:中本 雄一

序章:注意書き

 ライトノベルと呼ばれるジャンルの小説がある。(などと白々しく書いてみたものの、この文章を読んでる人は知っているだろうから実に白々しい。常識的な事が記述されている箇所もあるだろうし、自分の方が詳しいと考える人もいるだろうとは思う。一応、本稿はライトノベルが初心者、という人でも読めるように書いているのでその辺はご容赦いただきたい。)
 このライトノベルとはどういったものか、と尋ねられると非常に困る。何故なら、ここまで有名になっていながら明確な定義が存在しないからである。
 例えば、ネット上ではこう紹介されている。

 ライトノベル(Light Novel)とは小説の1カテゴリで、主に10代の中高生を対象とした、漫画・アニメ風のイラストを使用した娯楽小説である。ファンの間ではラノベと略して呼ばれる。
ライトノベルとそのほかの小説の境界はあいまいであり、そもそもはっきりとした定義を持った言葉ではないことから、「ライトノベルの定義」についてさまざまな議論が行われている。
(――Wikipediaより抜粋)
参考:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%8E%E3%83%99%E3%83%AB

 Juvenileとも言われる。少年・少女でも読み易いよう、比較的軽めの文体で書かれている。ジャンルとしてはSF・ファンタジー・ミステリ・恋愛が多い。近年はこのジャンル出身の直木賞作家も出ているので、侮れない。
 ライトノベルという言葉そのものは、ニフティ・サーブのSF・ファンタジーフォーラムによる造語。「軽い小説」とも取れるため、ヤングアダルトの呼称を使う人もいる。
ライトノベルの歴史は、1975年のソノラマ文庫創刊、または1977年の新井素子・氷室冴子らのデビューから始まるとされることが多い。
★「ライトノベルの定義」。あなたがそうだと思うものがライトノベルです。  ただし、他人の同意を得られるとは限りません。ライトノベル@2ch掲示板
(――はてなダイアリーより抜粋)
参考:
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E9%A5%A4%A5%C8%A5%CE%A5%D9%A5%EB

 このように、ライトノベルについて明確な定義は存在しない。ライトノベルとは何か、という答えは存在しないが、この小説はライトノベル、と判断する事が可能なだけである。
SFの定義のようなものである。

 以上のような背景から、本稿で私がライトノベルであるように扱っている小説などの作品は、「ライトノベルじゃね?」、または「それなんてラノベ?」と主観的に判断したと言わざるを得ない。それに留意して読んでいただきたい。また、手間がかかるのでライトノベルを「ラノベ」と略記する事があるが、基本的に両者の間に差異は無い。


第一章: それ なんで ラノベ?

 よく「ライトノベルは文章が短い。」「絵に売上が左右される。」「イラストに騙された。」などと揶揄される事がある。だが何だかんだと言われながらも買う人間は買う。そして売れていく。「だってラノベだし」という共通認識が免罪符のように働き、上記のような批判は打ち消してくれるのである。
 ライトノベルとはどのようなものなのか、ある程度の共通認識は存在するはずなのである。にも関わらず、明確な定義づけができない。これは何故だろうか。
 これについては、ライトノベルが時間が経つ事で形態が変化していったにも関わらず同じレーベルから出版され続けた為、混在していったからと考えられる。

 ある時期までは、従来のジュブナイル小説に加えてゲーム的小説、アニメ原作の小説が出版されていた。
 例えば、富士見書房は、TRPGをベースにした「○○リプレイシリーズ」等を出しているし、「電撃文庫」も最初の頃は「ゲームのような小説」を目指していて、新人賞の名前は「電撃ゲーム小説大賞」だった。(2003年度募集以降に「電撃小説大賞」)また、「ファミ通文庫」などでは今でもアニメ・ゲーム原作のノベライズを行っているし、角川スニーカー文庫では、富野由悠季が機動戦士ガンダムをノベライズしている。
 これらの小説が従来のファンタジー小説などと違う点をあえて挙げるとするならば、キャラクター中心、設定重視のストーリー展開である事である。キャラクター中心になるのは、主人公を中心に映像作品であるアニメを原作にしているから、設定重視になるのは、細かい数値を扱うゲームが原作であったり、TRPGを念頭においた小説であるから、と考えられる。この性質は以前からのファンタジーと比較すると、読み手にキャラクターの行動をビジュアル的に訴えかけ、頭の中でマンガ・アニメのように変換して楽しむ事が非常に楽なものだったと言えよう。重厚なストーリーや幻想的な風景描写などの読み手の想像力に働きかける文章よりも、今まで見たことのある映像を想起、復元させる事で、読み手へかける負荷を減らし、マンガ的娯楽要素に重点が置かれていたのである。だからライトノベルは、「比較的軽めの文体で書かれている」「娯楽小説」的要素が押し出され、普通の小説は勿論純粋な幻想小説も読まない中高生でも、マンガを買うかのようにライトノベルを買い、読む事ができた。

 95年前後から、キャラクター重視の傾向が顕著になり始める。いかに魅力的なキャラクターを生み出せるかを重視し、「キャラクター小説」と言われるような作品群が台頭してくるようになった。これにはいくつかの理由が考えられる。

 一つには富士見ファンタジア文庫から出版され、アニメのシリーズ化など大ヒットした「スレイヤーズ」等のヒットが考えられる。「富士見ファンタジア小説大賞第一回準入選」であるこの小説は、多くの中高生が経験している「ドラクエ」「FF」のようなRPG的世界観や呪文体系が設定として登場する。世界設定は自然風景の描写や国同士の政治的争いよりも“魔族”と呼ばれる存在の影響や階級に主眼が置かれ、全体像が最初から決定されている。登場する魔法はそれぞれに効果、使用範囲などが明確に描かれ、系統別に分類される等、そのままゲームに転用できるほどである(現に、テレビゲーム化、TRPG化されている)。だがこの小説の最大の特徴はキャラクターの設定、描写である。決して優等生的性格でなく、自分の欲望を自覚して暴れ回る主人公<リナ・インバース>、説明役として魔法に疎い設定だったのに最後には常識全てに疎いバカキャラの<ガウリイ・ガブリエフ>など、当時の他のファンタジー小説には見られない、マンガ的な性格の人物が個性豊かに活躍する。全てが分かりやすく、娯楽性のみを追求できる形であった。キャラクターの面白さが成功した一つの例であったと言えよう。
 もう一つは、“萌え”の発見である。
 元来ファンタジー小説ではその世界オリジナルの設定があり、その作中でドラマが展開され、戦いが発生する。そこに登場してくる女性キャラはあくまで全体の中の一部であった。以前から、膨大な文章の中に僅かに登場する女性の描写や挿絵に“特有の感情趨Gえ”を見つけ出し、それを享受してきた層がいた。“綾波レイ”“星野ルリ”のようなアニメキャラの人気が高まってくる中で、マンガ・アニメ的に娯楽性を追及し、重厚な設定や読みづらい部分は排斥されていた状態だったライトノベルがそれを取り入れるのは当然の流れである。しかも、どうやらその“萌え”る層を押さえておけば売れるという事が徐々に分かり始めた。絵と結びついたキャラクターは様々なグッズとして販売する事も可能であり、小説以外での収入にも発展する。もはや剣と魔法の世界でなくSFであろうとも日常生活が舞台であろうとも、女性キャラが受け入れられれば売れるのだから、ファンタジー以外の分野に舞台を変えながら“萌え”るキャラクターが需要されていった。
 他には、インターネットの普及による画像に対する影響や、ビジュアルノベルと呼ばれる小説的ゲームのヒットなども考えられる。また、この頃から新人賞の整備により需要と供給の間の差異は減少し、求められている商品が早いサイクルでダイレクトに小説化していく事で、勢いは上昇し続けたと考えられる。

 以上のような理由のいづれか、または複合的な影響を与えた結果、キャラクター重視となったと考えられる。詳細な設定を内包する堅実なファンタジーよりもビジュアル要素を重視しキャラクター性を前面に押し出したマンガ的小説の方が売れる。売れて続け需要が実証されていくにつれ、以前は部分的だったはずの“萌え”が主役になっていくのである。

 「イラスト重視」「萌え全盛期」とも言える現状は、もう一つの特徴でもあった、設定にも少なからず関係してくる。
 萌えを中心に据え置く方向に向かう。更に魅力的・個性的なヒロインが多くの場面で登場し活躍する事が求められ、勇者が囚われのお姫様を助けるのではなく特殊な能力を有する少女自らが敵と戦うようになる。その結果、必ずストーリーに重要なポジションに配置され、ヒロインを中心とした話を描く事でストーリーが展開・消化されていく形態となったのである。余計なものが排除された、実にシンプルなスタイルであると言えよう。
 だが、“萌え”を最重要なものとして女性キャラの魅力を増大させ続けると、いくつかの弊害を生み出す事にも繋がる。
一つは、反動として主人公のキャラクター性を奪う事である。男の子の冒険活劇だったはずのファンタジーが、ビジュアル的要素やストーリーの重要性をヒロインに譲渡した為に、主人公ではあるものの活躍する場面は減少し、場合によっては戦う役目すら奪われてしまう。また、主人公が所有するヒロインへの恋愛感情が登場する場合、読者の感情移入が必要となってくるが、スポーツ万能、成績優秀な主人公にしてしまうと、そうではない(多数の)読者には邪魔な障壁となる。つまり、主人公は戦わない無個性、無能力なキャラクターになっていった。
 また、最初からヒロインの魅力を中心に書こうとし、娯楽性と読みやすさを追求し(あるいは要求され)た小説は「いかに萌えられるか」だけがその小説の魅力となってしまう為に、そのヒロイン受け入れられなければ残ったのは劣化コピーされたファンタジー的、SF的小説でしかなくなる。そのような小説は、読者がマンガ・アニメ的に読もうとする際に大きな影響を与えるイラストに商品価値を委ねるのは自然な流れである。「イラストが売上を左右する」などと、絵がメインで文章は萌える為の材料である、と主従が逆転してしまったように言われてしまうのも、言わば自業自得である。逆に、イラストをより萌えるものにすれば売れる、という市場構造すら生み出し、小説自身がそれに適合できないと「イラストに騙される」「絵だけ」と称されるのである。
 ビジュアル要素を重要視しながら効果的に使用できるビジュアルノベル等のギャルゲー、エロゲーと呼ばれる媒体の方が、同様の消費者層に対して魅力的要素が高いと言わざるを得ない(圧倒的な価格差を除いて)。

 このような変遷を経て、現在に至るのが「ラノベ」である。
これらを一括りにラノベと称している以上、統一されたラノベの定義を決定する事は不可能なのはむしろ当然と言うべきである。

おまけ

 ただ、1980年代前半生まれであり、1995年の時点で中学生であった私の個人的な印象を述べさせていただきたい。当時は「スレイヤーズ」が全盛期を迎え、それから電撃文庫が台頭してきていた。この頃から「ライトノベル」という言葉を耳にし始めた。その為、「スレイヤーズ」以前の小説は「ファンタジー」、それ以降の、キャラクター重視の小説及び電撃文庫がゲームという言葉を残していた時期の小説が「ライトノベル」、メディアミックス展開が広く行われ萌えを最重要視し、「ライトノベル」を読んだ人間が作者として登場して、無個性主人公が多く発生している現在の小説が、言葉として普及、定着して略された「ラノベ」、という印象を抱いている。但し、これはあくまで主観であるので、これ以降の文章においてもこの括りは影響を与えないものとするつもりである。

★「ライトノベルの定義」。あなたがそうだと思うものがライトノベルです。  ただし、他人の同意を得られるとは限りません。 ――ライトノベル@2ch掲示板

注意:
 ここまでの文章は、全て「大半の読者が男性である、主人公が男性である」ラノベを想定している。読者を女性として想定したラノベの場合は“男”“女”の意味合いが異なってくるので注意して欲しい・・・が、本稿を読む人も殆ど男性であるだろうから、大した問題では無いとも考えられる・・・・うぇうぇww
 また、やおいやBLの場合は、読者が主人公を始めとした登場人物に感情移入する事なく恋愛を成立させられるので、これまでに挙げた障害を回避する事は容易である・・・・と思うのだが、私は女性でないので分からないおw


第二章:シャナは何故メロンパンが好物なのか?

 ここ数年、ラノベは順調に売れ続けている。本屋でも専用コーナーは広くスペースが取られ、常に多くの新刊が平積みされている。当然売れないものも多くあるが、多くのファンを得たものはアニメ化され、シリーズの累計で100万部を突破するものもある。
このようなライトノベル業界の中で、今人気が高まっている小説の一つが「灼眼のシャナ」である。2006年3月現在、電撃文庫から単行本が12(+1)冊発売され、TVアニメなど様々なメディアミックス展開がなされている。

<あらすじ>
悠二、おまえは私が護るから。

平凡な高校生、坂井悠二の日常は、ある日突然消滅した。
異界から渡り来た、人の“存在”を灯りに変えて、喰らうという化け物“紅世の徒(ぐぜのともがら)”が悠二を襲う。
逃げることも忘れ呆然と立ちすくむ悠二を救ったのは、紅い髪と瞳をもつ謎の少女だった。
そして──その少女は、悠二にこう告げた。
「おまえはもう【存在】していないのよ」と。
〜灼眼のシャナ公式HPより(http://www.shakugan.com/world/index.html
 
 このような紹介がされている。読んでいない人もいると思われるので、大雑把ながら説明すると・・・。

 日本のどこかの街に住む坂井悠二という少年が変な化け物に襲われ「死ぬ」。変な化け物を退治している少女は、坂井悠二が特殊な存在である事に気付き、彼を護衛しつつ同じ学校に通ったり寝泊りしたり化け物と戦う。一緒に戦っているうちに、坂井悠二にシャナと命名された少女は次第に好意を寄せるようになる・・・。
 という、全くもってラノベな感じのストーリーである。設定も同様である。
 坂井悠二は勉強やスポーツは平均的であり、部活もしてなければ生徒会にも所属してない、帰宅部。クラスに男の親友一人と好意を寄せてくる女友達が一人いる。シャナは特殊な能力持っていて敵と戦う為に空を飛び大きい日本刀振り回し、一般常識を持っておらず、最初は坂井悠二を敵をおびき寄せる餌としか思っていなかったツンデレ。ラノベを読んだ事のある人にとって説明する必要不要とも言える、これらのお約束めいたパターンもしっかり抑えられている。
 何故この小説が売れているのか。イラストが真っ先に挙げられるような気もするがそれはさておき、当然ストーリーや設定が実にラノベ読者層に受け入れられやすい最大公約数的要因を抑えているからだとも考えられるが、それだけでは無いだろう。それなりに萌えるイラストとお約束を盛り込んだだけの他のライトノベルと比較して、より売れている理由は何だろうか。それは、日常と非日常の絡ませ方が実に見事であるからだと考えられる。

 ライトノベルもそうだが、昔からある童話やファンタジーでは、魔法が存在したり妖精が出てきたりと「非日常」である要素が物語に登場してくる。その設定がいかに魅力的であるかが小説の魅力に直結する重要な要素である。この「非日常」要素が登場する物語は、二つのパターンに分類する事ができる。一つは、剣と魔法の国、などと呼称される地球上に存在しない異世界のみを物語の舞台とし、最初から最後までその中でお話が展開される場合。もう一つは、我々と同じく現実の世界に住む人が異世界に関わり、冒険する話である。
 例えば「機動戦士ガンダム」では、地球が登場するものの、コロニーやモビルスーツが出てくる宇宙世紀という未来を舞台とし、そこでストーリーが進む。一方、「ピーターパン」や「ナルニア国物語」、「ハリーポッター」等では現実に存在する(ように考えても無理のない)登場人物がタンスや駅などの現実世界と異世界を結ぶ扉をくぐり異世界に行き、そこで様々な事を体験し、最後に現実に帰還する。読者としては、主人公に感情移入したいのならば後者の方が読みやすいだろう。自分と近しい存在の方が自身を投影しやすい。主人公たちが現実に戻ってくるのは、さながら読者が本を読み終え現実に戻るようなものである。
 ラノベで後者のパターンを取る場合、異世界に行くというパターンでなく日常に「非日常」が浸透してくる形式が取られる事が多い。主人公には日常生活と非日常要素を両立させる事が要求される(体育会系の部活なんてやってたら無理だおww(^ω^))。普段学校生活を送っている学生にとっては、学校や学園という日常を占める大きな要因を捨てて異世界に行くより学校生活を存在させたままの方が感情移入しやすいせいだと考えられる。

 「灼眼のシャナ」では先に紹介された通り、日常が突然終わると言いながらもその後も学校に通うし、シャナもクラスメイトになる。(補足:小説内では、“存在の力”を奪われた平井ゆかりの存在になり代わる・・・という“言い訳”が説明されているので、転校生ではないし、学籍とか法律の問題はスルーのようである。)化け物との戦闘も、以下のような設定により坂井悠二が住んでいる街を舞台に行われている。

封絶(ふうぜつ)
最もポピュラーな自在法の一つ。封絶が発動すると、一定の空間のみが外部から切り離され、フレイムヘイズと徒以外の一切の動きが止まり、また応用として、広範囲に効果を及ぼす宝具等はその範囲を封絶内に縮められる。封絶の発動の間、その外部の人間は、封絶を張った空間を認識できなくなる。「教授」こと“探耽求究”ダンタリオンの編み出した複雑かつ非効率な自在式をもとに、天才自在師“螺旋の風琴”によって編み直され、これによって紅世の徒は完全なる隠密行動が可能になった。どれだけの範囲に封絶を張れるかは個人の熟練度により、一流の自在師になると街一つを封絶することも可能。
〜灼眼のシャナ−wikipedia より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%BC%E7%9C%BC%E3%81%AE%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%8A

 このような、非日常をうまく日常に溶け込ませようとした設定を最初から描写しており、「ま、どうせこんな事あり得ないだろ。実際にあったらすぐにニュースになるだろうし。」「警察呼んだらいいんじゃないか」という至極当然の意見を回避しようとしている(・・・・回避し切れてない気がしないでもないが、読者への言い訳にはなっている)。また、海も山も季節感も無い特徴がほぼ0であるが故に多くの人間にとって平凡な最大公約数的街を舞台にしている事で、日常の設定も抑えてある。このようにして、読者(特に学生)を坂井悠二に感情移入させる事に気を配り、成功しているのである。

 なるべく違和感無く、読者を置いてきぼりにせずに日常と非日常を融和させようとする・・そして絵の人気も高い。この時点で脱落してしまうラノベも数多くあるのだが、まだこれだけでは他と比べて秀逸であるとは言い切れない。この程度の設定のラノベもいくつかはあるし、多くのギャルゲーではこのパターンは常套手段である(読者が中高生ならばこの手のゲームは経験していないだろうから、比較するのは筋違いかも知れない・・と建前はさておき)。

 この小説の絡ませ方の見事さとは、違和感の排除だけではない。最も注目すべきは、他のラノベと同様に非日常性を持ち、戦闘シーンを描きながら、その実それら全ては「シャナをヒロインとした恋愛小説」の一点のみに集約されている点なのである。

 例えば本来はライトノベルの見せ場の一つである戦闘シーンを見てみよう。シャナは最初から最強クラスである実力と潜在能力を持っていて、坂井悠二は戦闘能力は無い設定である。シャナは坂井悠二により精神を乱され実力が出せなくなって負けたりするが、その後わだかまりが解けると実力で押し切ってあっさり勝つ。坂井悠二は街の日常や常識を知らないシャナに助言をし、運動能力や根性を全く使用せず貢献している。
 また、シャナがこの街で戦うのは、最初は使命感からだったが坂井悠二を守る為であり、一方坂井悠二の場合は敵から狙われるからシャナに協力する、という典型的巻き込まれ型である。決してカッコイイ主役にはならない。そこにあるのは呪文や技、特殊能力中心の面白みのあるバトルではなければ迫力のある戦闘でもなく、二人が力と心を合わせれば勝てる、というパターンだけである。
 また、非日常要素を他人にバレなくしようとする、という行動でも同様の効果を得ている。
 通常のラノベなどでは、主人公が非日常に接触し他人の知らない秘密を知った後、それを“外部”の人間に知られる事は発生しない。人間以外の存在がどれだけ出現しても警察や自衛隊が出動したり、マスコミが報道したりはしない。勿論ストーリー上の都合などもあるだろうが、それ以上に大きな理由なのが、“アイデンティティの喪失”である。
 ハリーポッターを例にしてみよう。本当の両親でない人に育てられ、普段から不遇の扱いを受けていた所に魔法学校への招待状がやってきて、行ってみたら何故か才能があるらしく活躍しまくり・・という、実にラノベに近い展開の話である(と思ってるけど映画見ただけだから本当は違うのかも知れない⊂(^ω^)⊃)。もしこの招待が多数の人、というよりハリーの周囲の人間にも同時に配られていたらどうだろうか?
 主人公は周囲と違い何らかの利点を所有している。それは天賦の才能を持っていたり、努力や勇気を惜しまない人物である場合もあれば、能力は無いが特殊な立場にいる人物であったりする。ハリーは魔法学校に入学できて父親の存在が特殊(だったと思うww)である。「機動戦士ガンダムSEED」であれば、キラ・ヤマトきゅんは偶然いた一人のコーディネイターであった為にストライクガンダムに搭乗する事になる。彼らのように本人に特殊な能力がある場合は良いのだが、無個性なラノベの主人公・・と言うより、読者側にそんなモノが無い。お手軽な感情移入を誘導させようとすれば、読み手とかけ離れていない、つまり平凡な主人公となり、そんな主人公の特殊性は「偶然その場に居合わせた」「偶然〜〜を所有していた」(この小説の場合は、坂井悠二がたまたま“ミステス”と呼ばれる存在であった)程度でしかない。だから、外部の人間が知ってしまっては主人公である理由が失われてしまう。これは読者の感情移入を寸断する事にも直結する。だからバレそうになれば隠匿しようとはするし、それは必ず成功する。
 だがこの小説では、隠そうと強く考えるのは主人公である坂井悠二でなく、シャナの方なのである。前述したように他人にシャナや怪物の存在がバレにくい設定を張り巡らしているので、元々バレる可能性は低く、坂井悠二嵩ヌ者視点ではその危険性を危惧しないで済む。隠そうとする従来のパターンを捨て、読者に完全に安心できるアイデンティティを提供している。それに対して、シャナは途中から、一般人であるクラスメイト吉田一美を恋敵と見始め嫉妬するようになってから、坂井悠二と共有する非日常の秘密を「自分と坂井悠二との結び付き」として認識するようになってくる。そしてただひたすら、「自分は坂井悠二にとって特別な存在である」という事を強調したいシャナ側の感情によってのみ“秘密を隠したい”という行動が書かれている。
 非日常を保つ必要のあるラノベではあるが、非日常を秘匿する必要性を薄める設定を用い、その役目を主人公からヒロインに譲渡した結果として、「主人公がヒロインに好意を抱く」方向ではなく「ヒロインが主人公に好意を抱く」方向として働いているのである。

 そして最大のポイントは、この小説独自の世界設定や用語が、「スレイヤーズ」の呪文設定のように戦闘に反映されたりストーリーに大きく関わってくる事よりも、むしろシャナというヒロインの存在を際立たせるように強く働いている点である。
 この小説の設定の特徴は、オリジナルの言葉を用いている点、そして固有名詞の多さである(前述の「灼眼のシャナ −wikipedia」参照)。設定そのものはそんなにオリジナリティがあるわけではないし用語の種類は決して多くないから、読者は負担に感じる事無く覚えられるレベルに止められており、既存の神話に出てくる名称は一切無いので、今まで読んだ事のあるファンタジー小説やラノベを想起させる事はない。難なく「独自の世界」が把握できる。
 そして「今まで聞いた事が無い世界」の住人は、これまた既存の神話から付けられた名前ではない。そして長い。全て二つ名を所有しているのに加え、二つ名を持つ別の存在と常に行動している、という設定になっている。例えばヒロインの場合は、「炎髪灼眼の討ち手」という称号を持ち、『天壌の劫火』の称号を持つ『アラストール』と契約していて、早い時期に登場する『マージョリー・ドー』というキャラは『弔詞の詠み手』の称号を持ち、『蹂躙の爪牙』の称号を持つ『マルコシアス』と契約している・・・・。登場してすぐ倒されたりして出てこなくなるキャラの場合でも、このような名前の設定が全て付いてくる。仮に個性を打ち出そうとするのならば、むしろ各キャラ固有の能力や設定を強調し、それに伴った戦闘シーンを描くのが通例である。だが、ただひたすらに独自の固有名詞が垂れ流されるのに、戦闘シーンも前述の通りあっさり風味であるし、これらの名前が特に大きな意味を持つ事は殆どない。変わった名称を列挙しても無駄なのではないのか、と思う人もいるだろう。
 これら一つ一つの単語は登場人物それぞれの個性を高めるのではなく、全てが集まり設定の一覧となって初めて効力を発揮しているのである。多くの固有名詞が存在する設定は、“ヒロインがいた”異世界という存在、を際立たせる。かと言ってその設定一つ一つに凝り深みを出そうとすると読者の視点はそちらに向いてしまう。それぞれのキャラの印象が強くないという、出来の悪いライトノベルで発生する現象のように見えながら、注目すべき焦点を分散させないまま、「詳細な世界」観を描く効果をもたらす。
 非日常世界を描こうとする同様のライトノベルが独創的で複雑な、ストーリーに関わってくる舞台を描こうとしているのに対し、この小説の場合では、読み手がシャナというキャラクターだけに強い印象を受けるためだけの「独自の」「詳細な」世界を描いているに過ぎない。結果として、異世界の存在をどれだけ読み込もうとしてもヒロインの印象だけがを読者に強くアピールされるのである。

 このように、異世界の住人という非日常性の高い個性を持たせている。だがここまで描写すると、いかにヒロイン“が”主人公を好きになるお話であり、主人公にとって自動的に受身な姿勢のまま恋愛が発展でも、「現実に存在しない」「自分とは違う存在である」ヒロインに恋愛感情を有する主人公に感情移入できるか、という問題が発生するはずである。だがこの小説は、他の小説のように種族の違いに悩むような場面は全く出てこない。
 (そもそも恋愛そのものが非日常的なものである読者層に受け入れられれば問題ないが、それはさておき、)何故なら、日常と非日常をうまく融合させようとしているのは前述した通りだが、その方向が、特にキャラクター設定において顕著なのだが、「日常的存在に非日常的要素を付与させる」のではなく、「非日常的存在に日常的要素を付与させる」方向に限定させてあるからである。

 その仕掛けの一つが「メロンパンが好物」という設定なのである。女性的イメージを付与させる為に甘い食べ物である必要があるのはすぐに分かるが、何故メロンパンなのか。例えばチョコパンやアップルパイでは駄目なのか?鯛焼きでは駄目なのか?メロンパンでなく他の食べ物と比較して考えてみるとすぐに分かる問題である。まず、他の物と比べてメロンパンに対するイメージがぶれない点である。チョコパンやアップルパイ等では形状が多様であり突出して人気のある形が無い。それに対してメロンパンならば、勿論変わった亜種も存在するがその形状と色のバリエーションが少ないし、それらを省いて通常のメロンパンは?と言われると殆どの人が同じ映像を頭に思い浮かべる事が出来る。かといって、形が一つしかないだろうと言って突然アップルシュトゥルーデル等が出てきても知らない人が多いので使えない。メロンパンはどこにでも売られているメジャーな食品であるのも大きなポイントである。鯛焼きも同様の効果を持ってはいるが、入手しやすさという点ではメロンパンの方が強いだろう(というか、鯛焼きはもう使われてるからダメという理由の方が強いだろうけど、よい子の中高生は知らないはずだから詳しい事はここでは書かないお)。

 「灼眼のシャナ」というラノベを面白いと思うかは読んだ人それぞれだろうが、売れる要因は確かに存在しており、そこをきっちり抑えてある小説なのである。
 数多くのラノベが出版され目指す方向は色々あるだろうが、中途半端に終わっている小説が多い。いかに読者がストレス無くヒロインに“萌える”事が可能か、という趣旨の本であるはずなのにそれが出来なかった小説は、何かが不完全なのである。同系統の作品が巷に溢れている中生き残るには、何が読者を惹きつけているのかをきちんと理解し、この小説のように開き直る必要があるだろう。


第三章:なぜ「セカイ系」では世界設定が省かれるのか。

 日本だけでなく世界中に昔話や童話は存在しており、絵本やアニメに形態を変えつつ世代を通じ楽しまれている。これらは本来小さな子供が読んだり見たりするものなのだが、それを薦めるのは大人たちである。一方、ライトノベルの消費者層は主に中高生が中心とされている。歴史は浅いながらも10年以上の幅を持っており、ライトノベルを読んだ事のある30代、という人が出てきてもおかしくは無い時代である。
 だが、大人になっても読み続けたり、小さな子供に薦める人は殆どいないだろう。勿論、ある程度の日本語読解力が必要だったり、内容が子供に見せるべきもので無かったりするのだが、それらを差し引いても子供に読ませたいものには生り得ない。何故なら、ライトノベルにはテーマが存在しないからである。

 童話は、ラノベと同様におとぎの国で冒険したり妖精や魔法が存在するフィクションである、と考えれば両者を似たものと考えるかも知れない。確かに非現実的な幻想世界は魅力であり、子供たちはそれを楽しみたいと考える。だが子供にとって、入り口だけ見ると楽しそうな遊園地は実際に中に入ってみると必ず多くの障害が待ち構えていて、成長を迫られる仕掛けが施されている。
 例えば、「ピーターパン」(ここではディズニーのアニメ映画に限る)では、大人になりたくない子供たちが永遠に遊べるネバーランドに行く話である。ネバーランドは妖精や人魚がいる楽しそうな世界であるが、そこにはフック船長がいる。小さな子供がこれを見ると不思議な世界での冒険を楽しむだけかも知れないが、ある程度年をとった人が見ればこのお話がどのように考えられて描かれたのか理解できる。フック船長は時計を飲み込んだワニが嫌いであるが、これは時計が時間の経過を象徴する存在だからである、と気付く事が出来るだろう。子供のままでいたかったウェンディも結局最後には元の世界に戻るラストを見て、子供と大人とは何だろうか、とか色々考える事になるだろう。
 また、主人公が異世界を訪れ冒険する、という形は必ず最後に元の世界に帰るという前提が生まれる点にも注目すべきである。最初子供が夢見た幻想世界に飛び込んでみても、結局つまらなかったはずの現実世界に戻ってくるのは、ストーリーの過程で子供が成長し、親の愛情に気付いたり、友情を深めたり、愛が芽生えたりと、物語の冒頭に持っていなかったモノを得たからである。それは魅惑的な世界に足を踏み入れた読者の姿と重なる。どんなに魅力的に思い、主人公に感情移入しても読み終えて本を閉じればごく平凡な日常に戻る。主人公と同様の何かを得て。
 童話では、ただダラダラ遊んで楽しい時間を過ごすのではなく、必ず試練を乗り越えて現実の世界に帰ってくる。と同時に、読者も本の中の世界を楽しみながら何がしかの教訓を得る。童話では必ずテーマが存在し、読む事で得られる教訓めいたものが存在する。これが童話の良い点であるし、大人はそこに描かれたテーマを知っているから子供に安心して見せるのである。

 一方、(殆どの)ラノベにはそのような物は無い。多くのギミックや用語、過去の作品から生まれた多くのお話の形式を詰め込んでいるが、あくまで面白さの一つとしてファンタジーやSFのギミックを利用しているだけである。娯楽として楽しみたいだけの人や現実の世界に嫌気がさしている人たちに取って、苦痛を伴う障害や現実を想起させるものが登場するとむしろ邪魔な存在である。だから運動能力や学力が求められる話や、厳しい父親が出てくるラノベは存在しない。仮にあってもそれは最後までマイナスイメージを有したまま停滞し続ける。期末試験だから喜ぶ主人公なんていやしないのである。だから起承転結や山場があっても、現実にもフィードバックできるような教訓が活かされるシーンが出てこないし、読者は何の教訓も得られないのである。
 これは娯楽性のみによる一点突破を追及し進化し続けた結果であり、そう割り切れば害悪な存在と言い切る事はできない。いつまでも楽しい遊園地で遊びたい消費者の需要に答えようとした結果である。だからラノベにテーマ性など無いのはマイナスでなく、必然の事である。

 テーマが無ければどんなに壮大な話を書いた所で読者には何も残らないし、主人公の行動動機が失われ迷走する事になる。萌えや笑いだけを考えたなら問題ないだろうが、ストーリーを成立させられない。だから、刹那的な快楽だけしか発生できないラノベであっても何がしかのテーマ“のような物”が必要となってくるのだが、ラノベの読者に重たくてかさばるお土産を持たせようとすると受け取ってくれない。
 しかも、感情移入のしやすさを求めて「平凡で無個性な主人公」を登場させようとすると自然と「平凡な日常に非日常が介入してくる」展開に陥る。主人公が異世界を訪れて帰る場合はテーマを現実に持って帰れるのだが、これでは最後に切り離さない限り、非日常世界に帰結してしまう。遊園地に住み着くのなら遊園地の中にいながら教訓を得る必要がある。

 つまり、ラノベには「苦痛でなく、娯楽要素を害さず、現実世界でも非現実的世界でも成立する」テーマが求められた。しかもそれは読者層に受け入れられやすいものであり、「現実から非現実へ」というベクトルを強くするものがベターである。それが、「現実世界の主人公(=読者視点)と非現実世界のヒロインとの恋愛」である。成立する事が確約される恋愛は苦痛でなく、学力や家族の影響を受けないから娯楽要素を害さないし、恋愛は誰でも理解できるからテーマ“のような物”として成立できる。また、主人公の行動動機も「地球の平和を守る酔凾ネ現実を保持する」のではなく「ヒロインが好きだから」と括れる。

 これを突き詰めていった形の一つが「セカイ系」と呼ばれるお話になる。「セカイ系」とは、アニメやラノベ等の作品の一部に対し言われるジャンルである。ネット上ではこのように定義されている。

 作品の主役の個人的な行動や性質、対人関係、内面的葛藤などが、「日常生活」ではなく「世界」そのものの存続を左右する…という設定を特徴とする。また他の特徴として「ボク」と「キミ」という二つの存在が、ストーリーの鍵となるケースが多く、二人の個人的行動、特に恋愛が「世界」の命運を握る傾向が多く見受けられる(『エヴァ』自体は恋愛に重点を置いていない)。『エヴァ』以降の「エヴァ風」の作品群そのものを指す場合があるため「ポスト・エヴァンゲリオン症候群」とも呼称されることがある。
(――セカイ系−Wikipedia より)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E7%B3%BB

 過剰な自意識を持った主人公が(それ故)自意識の範疇だけが世界(セカイ)であると認識・行動する(主にアニメやコミックの)一連の作品群のカテゴリ総称。
[きみとぼく←→社会←→世界]という3段階のうち、「社会」をすっ飛ばして「きみとぼく」と「世界」のあり方が直結してしまうような作品を指すという定義もあるようだ。特に『最終兵器彼女』などは、“きみとぼく”が「世界」の上位に来ている、すなわち「きみとぼく」の行動で「世界」の行く末が決まってしまうという設定であるのも興味深い。
(――はてなダイアリー−セカイ系とは より)
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%BB%A5%AB%A5%A4%B7%CF

 色々な定義があるそうだが、大体共通しているポイントは、主人公の認識する“世界”が非常に狭い事と、“世界”の危機にそんな主人公が関わっている点であろうか。この言葉自体嫌いな人もいるだろうし、勝手な定義が横行している感も否めないので、ここでは「セカイ系と呼ばれる作品」、として漫画の「最終兵器彼女」とラノベの「イリヤの空、UFOの夏」を取り上げてみることにする。
 この二つの作品はどちらも「セカイ系」として扱われている。「最終兵器彼女」はアニメ化されたし、2006年1月に実写映画化した。「イリヤ〜」もOVAとなり、どちらも人気が高い事が伺える。ストーリーも似ている点が多くある。日本に住む平凡な学生が主人公であり、ヒロインは世界の平和を守るべき存在である。彼女との恋愛を成立させようとすると世界が滅亡する。だが、敵の設定は明確に描かれないし、ヒロインが何故そんな存在なのか、等は殆ど描かれない。その為、これら二つを同様の存在と見てしまいそうだが、この二つの作品のテーマは別物である。

 「最終兵器彼女」は、読者を主人公に感情移入させようとした恋愛モノである。登場人物に苗字が無いのも設定の描写が切り捨てられているのも作者は意図的にやっていると言っている。主人公は北海道に住む普通の高校三年生。クラスメイトであり、彼女となった(ような状態)ヒロインも、最終兵器となるまではごく普通の女子高生である。この二人が交際を始めるところから話は始まる。スタート地点では普通の日常が描かれているので読者も入り込みやすい。そしてヒロインが最終兵器となって以降、読者は主人公と同じく非日常の世界に足を踏み入れる。日常に非日常が混ざってくる。ここで敵とは何か、何故最終兵器として選ばれたのか、という設定を書くと、「最終兵器彼女」の世界観は深まりリアリティが増すように思えるのだが、それは非日常のリアリティが強まるだけである。作品内の日常と非日常は融和は進行するが、その分主人公の日常と読者の日常は乖離せざるを得ず、読者のいる現実と漫画の世界という非現実との境界が明確になってしまう。「最終兵器彼女」の世界観が強い個性を持つ分、読者が主人公に感情移入しようとする際にそこに入り込みづらくなるように働いてしまう。だから詳細な設定は描かれず、読み手は主人公と同じ立ち位置にいられる。こうして、「世界とヒロインのどちらを選ぶか」という現実ではあり得ない選択を読者に見せ付けられるのである。
 その代わり、この漫画は自分が社会をどのように認識しているかによって評価が変わってしまう。例えば、社会をあまり意識していない小学生などでは、“世界”の価値の重さを知らないので大して感動できないだろうし、実社会に出て家庭を持ってる大人にしてみれば“世界”の重さを知りすぎている分主人公を若い、青いと考えてしまうだろう。自分の知る“世界”が程よい大きさで愛ではなく恋に憧れる世代にとってのみ、この作品は恋愛を描いた名作として扱われる。逆に、“世界”に対し意識を向けていないままの“近頃の若者”に受ける作品としてマイナスイメージを付けて語られてしまう。

 以下、「イリヤ〜」のネタバレを含みますのでまだ読んでなくて知りたくない人は読まないで下さいブーン)

 一方、「イリヤ〜」の場合はテーマも手法も違う。主人公の設定は平凡な中学生であり、住んでいる街は多少個性があるがそれでも、読者は楽に感情移入できる程度である。ヒロインは最初から特殊な存在であり、転校生としてやってくる。何故か主人公と関わりを持とうとするヒロインについては周囲の人間から少しずつ何者であるかが分かってはくるが、最後まで詳しい世界設定は明らかにされない。これは当然読者の感情移入を促進させる為でもあるだろうし、イラストから見ても“萌え”を狙っているように見られるだろう。
 だがこの小説のラストは“萌えた”人によってはあまり良くないという評価をされる。主人公が傷付いたヒロインに初めて好きだと言った直後、ヒロインは世界を救う為に自らを犠牲にして死ぬからである。何故ヒロインがこのような行動を取ったかについてはエピローグで書かれている。世界を守る為に戦うパイロットとしてのみ生きて育てられてきたヒロインには家族などの守りたいものが無く、また戦闘を続けるには大量の薬を飲む必要や苦痛を伴うなどの副作用があるので戦うより自殺したほうがマシであると考えても仕方なく、自分が生きたいから戦う、という動機を持てない。戦う理由が元々少なく、仲間が死んで最後の一人となった時に守りたいものを完全に失ってしまったので、周囲の大人たちはヒロインに子犬(作中では主人公、あるいは主人公と平和な世界のセット、と書かれている)という「守りたいもの」に出会わせ、「主人公の為に生きたい」、「主人公を守りたい」「主人公の為に死んでもいい」と思わせて、結果主人公のいる世界を守るべく行動させようとした計画であった結果である。だから主人公が、自分はヒロインが好きであり世界が滅んでも一緒にいたいと宣言するのを聞き、ヒロインは満足して主人公の為に死ぬ。
 世界は救われ主人公には最初と同じ平穏な日々が戻ってきたところで終わる。だからヒロインに萌えて主人公との恋愛が成就される事を願う読者はショックを受けるそうである。確かに悲しい恋愛ではあるけどもっと救いのある終わり方はできなかったのか、と。

 だがそのような意見は、「イリヤ〜」は「最終兵器彼女」とは違い恋愛モノではない事に気付いてないだけなのである。確かに主人公に感情移入しやすいし、ラノベのコーナーに並んでいる本だし、読者はヒロインに“萌える”。だから手軽に萌えた人は、二人が救われる方が良いが最後のやり取りも悲しい恋と捉える事もできるし・・と「最終兵器彼女」と同じように見ようとしてしまう。 確かに主人公は自分の持つ“世界”は狭いかも知れない。一人の好きな女の子と世界を天秤にかけようとするので「最終兵器彼女」の主人公と同じ存在であると見える。ヒロインも、世界の存亡を左右する存在であり、戦う為の存在であるので、「最終兵器彼女」のヒロインと同じ存在と勘違いしがちである。
 だが、本当に「個人的問題と世界的問題の直結」している存在であるのに“セカイ”が狭いのは主人公ではなく、ヒロインである事が最後に明かされる。この小説の“セカイ系として最も主人公らしい人物”は「世界と直結している存在と恋人関係であるセカイの狭い主人公」ではなく、「世界と直結している存在そのものでありながら“セカイ”が狭いヒロイン」なのである。
 世界の存亡を左右する存在でありながら生きる意味が見出せない。戦うべき相手が見えているのだが戦う理由が分からない。助けるべき友達ももはやいない。それはヒロインが“世界に対して興味を見出せない理由”の設定であると同時に読者、特にライトノベルを好んで読む人達が“セカイに対して興味を見出せない理由”なのである。
 そして、そんな自己中で青いと言われてしまいそうな心境の中でヒロインは主人公と出会う。エピローグで、「主人公に出会ったのは偶然であるが守るべき日常を見せようとしたのは確かだ・・」という主旨の文章が書かれている(と思うんだけど手元に本が無いから正確なところは確認できない)がこれはつまり、自分だけのセカイに閉じこもっていたヒロインが世界に目を向け、その結果「守るべき存在」を「恋」という形で見出す。本来の世界に目を向け、自分だけのセカイから抜け出したのである。
自己のセカイで完結するのではなく、外の世界に目を向ける。この事を狭いセカイの中にいる人間に伝えるのは困難である。だから、世界を左右するパイロットという分かりやすい形で表現する。そしてこの非日常的人物に対し感情移入する事は難しいから、それとは別に「世界に対し特に関心の無い個性の薄い物語の主人公」を置く。そして「主人公がヒロインを好きだから(嵩ヌ者にとっては“萌え”)という感情」を用いて読者を非日常に引っ張り込む。そして“セカイ系である人物”のヒロインに結びついていく。“ヒロインが守りたかった世界を主人公は生きる”ので読者は・・・・。
 この作品に対し「主人公が優柔不断過ぎて感情移入できない」「ヒロインに早く好きだと意思表示していないなんてギャルゲーの主人公みたいだ」という意見は間違いである事が分かる。主人公は強い決断力を持たず、“世界”に対し強い意識を持たず、冷めた目を向けたり理解しようとしない典型的“セカイ系的性格”の主人公である。そんな主人公は世界の危機を把握しようとせずただ問題を先送りして逃げ回る。追い詰められて初めてヒロインに好きだと言う事で、セカイでなく世界へと向き合おうとする。それがトリガーとなってヒロインは世界に価値を見出し死ぬ。だからこの性格の設定は必要不可欠なのである。

 物語全体を通して、読者の感情移入は、(読者→)主人公→ヒロイン→主人公(→読者)と四つの段階を変遷する。
平凡な主人公に読者は感情移入する。
主人公の恋愛感情を読者は萌えとして協調する。
ヒロインの守った世界を主人公は悲恋という形で受け止める。
そして元の平凡な日常に戻り読者の現実に帰結する。
 この最後の帰結の為に、ヒロインがいる前といなくなった後は読者の現実と近い存在である事が求められる。「ピーターパン」でウェンディがネバーランドから現実に戻ってくるように、「イリヤ〜」でも主人公は元の“ヒロインがいない世界”、つまり現実に戻る。クラスメイトが死んだり人々の価値観が変わってしまうなど、非日常が日常に侵食しきっては駄目なのである。
だから非日常の詳細な世界設定は描写されない。
あたかも最初からヒロインなどいなかったように日常が戻ってくる。UFOと呼ばれた飛行物体のパイロットのヒロインはいなくなる。UFOを追いかけた楽しい夏も終わる。
だからタイトルは
「イリヤの空、UFOの夏」。

 「最終兵器彼女」は恋愛ものだからそのようなメッセージは無くても困らない。主人公は非日常に帰結して終わる。「イリヤ〜」はセカイ系として分類されているが、セカイ系の人間に対するメッセージを読み取る事ができるのである。
 どちらも同じように見えるが、一方は一生遊べる楽しい遊園地であり、もう一方は帰宅した後に何故に行きたかったのかを考えられる遊園地。
 どちらが優れているか、どちらを好むかは人それぞれだろうけど。