SF研究会読書会
2006年2月24日@三田
レポーター:えびはら







新城カズマ『サマー/タイム/トラベラー』(早川文庫)

1:ホライズム原稿(ものすごく甘口)


 ぼくがこの小説に高校生の時に出会っていればきっともっと別の今があったに違いないと、読みながら何度も思ったけれど、それはどだい無理な話だ。だってあの頃の僕は一生懸命高校生をやるのに忙しくて、何も他のことを考える余裕なんてこれっぽっちもなかったから。他のことっていうのは、つまり、自分がどうして高校生なんかやっているっていう問いを考えることで。あの頃のぼくは、大切なおもちゃたをなくしてしまったことは確かなんだけど、どんなおもちゃだったかうまく思い出せずに、デパートのおもちゃ売り場の棚の間をただいったりきたりして、なくしたものと似たおもちゃがないか探しているような子供だった。哀しいのだけれどなんで哀しいのかうまく説明できなくて、そのことがまた哀しさを増していることに気が付き呆然とする、それをただただ繰り返していた高校生だった。ひょんなことから哀しさの正体に気がつくのだけど、それはまた別の話。そしてもう少しあとの話。ここではこの小説についてぼくの考えたことを言ってみたい。

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 地方都市辺里に住む語り手のタクトは幼なじみの悠有がマラソン大会の日にほんの数秒時を跳び越えたことをきっかけに、お嬢様高校の才女・饗子や、名歌の三男・涼、同じ部活に所属しているコージンたちと一緒に夏の「プロジェクト」を始める。悠有のおばさんが経営する喫茶店「夏への扉」に集まり、古今東西のタイムトラベルSFを集めて、悠有の時間跳躍能力をうまくコントロールできるように訓練を重ねた。プロジェクトのメンバーは、それぞれの思惑を抱えながら遊び半分で始めたものの、やがてタイムトラベルを目撃しのめりこんでいく。コツをつかんだ悠有は自在に跳べるようになりこの力を何かに使えないかと提案し、商店街の放火事件が地方通貨の流通を止め引き起こされた経済パニックを補うために、公害問題に利権を絡めていた街の政治家(涼の祖父)から現金を騙し取ることを計画する。作戦は成功するも、事件後タクトは涼が放火犯であることに気が付いてしまう。涼は悠有を誘拐し部室に監禁した上で放火するが、間一髪のところでタクトとコージンに助けられる。涼は、脳の機能不全のため多重人格者だったのだ。涼の逮捕で全ての事件は幕引きとなるが、未来へ飛ぶ力を得た悠有は未来を見ることを願い、タクトたちの前から跳んでいった。

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 びっくりするぐらいありきたりの青春小説だと思わないかい。ちょっと不思議な少女、そして彼女がもつ不思議な力。一癖も二癖もある仲間たち。ものをたくさん知っていて(あるいはそう信じていて)、頭が良くて(あるいはそう信じていて)、それでもどうしようもなく「高校生」で。だって人類の行く末を論じたり、「いま・ここ」から遠く離れたところ(そう未来!や東京!)に脅えたり、その裏返しとして敵対心を抱いたり。「アエリスム」だかなんだかしらないけれど、ネット上のカリスマ・アイドルは他の小説でも良く見られるように本当に陳腐で、それなりに面白いことを言っているようだけどさ、ネットヒーローと描写されるや否やどうでもいいものに見えてしまうのはなぜなんだろう。それは饗子が「高校生」だからなんだろうね、きっと。作者はどこまで意図したのかはわからないけれど(それこそ別の話だし)、ここまで「高校生」というラベルに忠実な高校生を造形し、それをはばからないというのはどういうことなんだろうか。「夏への扉」というバカみたいな名前の喫茶店に集まって、多元世界解釈のような無数の名前をもつ猫とともにタイムトラベルSFを論じている彼ら彼女らの様子は、誰に言われたわけでもないのに青春小説を一生懸命再演しているみたいだ。物語の舞台設定は恩田陸『球形の季節』のようだけれど、でも、この話は恩田陸とは決定的に違うところがある。読んだ人誰もが気がつくと思うけれど、それは過剰といってよいほどの感傷さとリリシズムにあふれた「語り」だ。語り手タクトは言いようのない哀しさにとらわれていて、後悔とも反省ともとれる「ああすべきだった」「こうすべきだった」がページ一杯にあふれているんだから。

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 涼がタクトに興奮しながら語った、「この宇宙は…物理的実在と異なる『通信的実在』を要請する。本質的にTT性をもつもの…物理系の中へ矛盾を引き起こさせる悠有見たいな存在を」(2:110)生み出す理由は、可能性を喪失と考えたときに人が感じる哀しさといえるかもしれない。涼は「可能性の…現実という圏に対する圧力」つまり「浸透圧」(2:101)とも言った。私たちは、生きている。それはつまり、時間軸上のある一点に空間上のある地点を占めている。このような空間・時間の広がりの中に自己の空間・時間的存在を認識することを人間はできるわけだが、それはとりもなおさず、広大すぎる空間・時間の広がりの中で自己という点(あるいはシミ!)の矮小さに対する絶望的な気付きにほかならない。こんなに広いのに、なんてちっぽけなんだろう! この認識は可能性を実現しなかった喪失ととらえることと同じだ。タクトが抱える喪失の哀しさは次のように語られる。「例えば、とても素敵な歌を耳にして、歌詞に書かれた情景が決して現実のものではないと気付いた瞬間…その曲の中に自分は決して入ることができないのだと悟った時と同じ、あの感触だ」(1:129)。どうして自分は歌の中に歌われている空間・時間を占める一点ではないのだろうかという素朴な疑問。これは哀しみだ。それも二重の喪失という哀しみだ。なぜならば、何も失っていないはずなのに、すでに何かか失ってしまっているように感じるのは、実はもう何か失っているのだが、喪失したものが何であるかを忘れるという二重の喪失を体験していることに他ならないからだ。時間・空間上のある一点として自己を確認することは、平面上から「自己」とされる一点を除く他の全ての点の集合を抹消し、かつ抹消したことを忘れることなのだ。

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 タクトは「ここ以外の何処かへ(anywhere but here)」(1:195)行きたいと願っているようだけれども、でも本当は、いま・ここにしがみついていることはよくわかる。ぼくも高校生のときそうだったから、本当によくわかる。たとえば「あらかじめ失われた未来」(1:269)とタクトは自分の違和感に名前をつけることをするけれど、これは時間軸のいまにしがみつこうとすることだし、辺里という一地方都市にその閉塞感を楽しみながら閉じこもっているのは、空間軸のここにしがみつこうとしていることなんだと思う。今のぼくならばタクト、あるいは高校生の頃のぼくの肩をたたき、世界は君の思っているほどクソッたれなところではないよ、と言ってやりたいけれど、でも彼らの方に手を伸ばしながら、間違いなく彼らはぼくのいうことに耳を貸さないだろうな、とも思っている。だって、知ったような顔をして近づいてくる「大人」はロクなことを言わないと(ほとんど勝手に)信じていたから。悠有が跳べることができるようになった時にタクトが置いてきぼりを味わい、「彼女の能力に。彼女の純粋さに。彼女の、未来への…そう希望に」強い「嫉妬」(2:149)を感じたのは、タクトがいま・ここにしがみついている自分、しがみつかなければやっていけない自分を知りつつ嫌っていたことの証拠だと思う。そうだ、もう一つ今のぼくからタクトと、できれば高校生の頃のぼくに言いたいことがあったんだっけ。それは、そんなに必死にしがみつかなくてもいいよ、って。肩の力、抜いてごらん、って。だって、君は過去にも未来にもたしかにいるし、ここではないどこかにもいるし、いま・ここではいところにいるからこそいま・ここにいるって思えるんだよ、って。そう言ってあげられたらまた少しは変わっていたかもしれない。今となってはどうにもできないんだけどね。
 
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  タクトは「ぼくらはもう『未来』ってやつを過去形の物語でしか語れない」(2:164)などといいながらも、エピローグでちゃんと「未来」を語っている。もちろん過去形で語っているのだが、それは文法上過去形であるというだけであって、エピローグを語っているタクトならば未来について未来形で語ることができるだろう。タクトはいま・ここにしがみつくのをやめたのではない。「愛するものを手に入れて、そいつといっしょに年をとれ」(2:291)という言葉が示すように、大切なものはいま・ここにあって、それを大切にすることがいま・ここですることなのだと理解している。しかしそれだけではない。何よりもいま・ここという概念が揺るぎのない確たる存在などではなく、無限の可能性なかの一点でしかないしまた可能性の一点としてしか認識できないことに、経験的に気が付いたのだ。悠有はタクトの前から消えた。あるいは三回だけ現れてまた消えた。でもタクトにとって悠有は消えていない。つまりそういうことだ。悠有の兄・鉱一がかかっているS=Z症候群は(ロラン・バルトの著作を彷彿とさせるが)「数週間おきに、ありえたかもしれない過去と現在(そして時には未来)が脳細胞の中に現れる」(1:177)という病だが、人がもつ自己という圧倒的な存在感が幻想であることを前景化させたものにほかならない。高校生をやるのに忙しかったタクトたちが高校生である自分に気がつくには、高校生でなかったかもしれない自分を夢想することと関係している。そしてもしそうすることができれば、きっと彼らはいま・ここを生きるとはどういうことなのかを、もうすこし理解できたかもしれない。そしてもしかしたらそれが大人へ成長することなのかもしれない。小説の語り手であるタクトは、だとすると、少し子供だ。なぜならば高校時代から三〇年たっても失われた可能性を嘆きつづけているからだ。この嘆きは見かけよりもすこし複雑で、喪失を回復可能なものとして嘆いているのかそれとも喪失を喪失として嘆いているのか(諦めに近い)が判然と判断できない。そこに感傷主義が入り込んでくるのだと思うし、いま・ここに執着する姿勢からいま・ここを拡散させる方向へと一八〇度転換することしかできない人間の本質的な認識論的欠陥を見ることもできるだろう。いま・ここは、あらかじめ喪失された無限の可能性を想起することと同時である。どちらが先でどちらがあとというヒエラルキーはない。この同時に誕生した双子をヒエラルキカルに誤認してしまうところに、あるいは誤認を理解した後でその秩序を逆転させることだけで満足してしまうところに、人間はい生きているのだろう。だから語り手タクトは、嘆いてばかりいるかもしれないが、生きている。高校生タクトから見た「未来」に。きっと、「愛するものを手に入れて、そいつといっしょに」生きている。


2:読書会トピック(普通に辛口)


・ 語り手の文体・口調
  「気持ち悪い」「肌にあわない」「中年ジジイのノスタルジーに付き合いきれない」(どれもわたしの本音の一部分だ)といって気って捨ててしまうことも可能なのだが、建設的ではないしここでやることでもない。上記のホライズム用原稿では語り方をかなり誉めたが、でもそこまで言い切ってしまっていいものかいろいろ内的葛藤は抱いている。世代間闘争魂がうずいていて。この語りがもたらす効果、作者の意図を考えてみたい。ノスタルジー(ノスタルジジイ)なのは、作中でフィニィ作品にあれだけ言及する作者の好みなのかも知れない(ウェブ上のインタビューでは「TTの中でほんとに好きなのは、「セピア色の過去へ戻る」パターンなんですよ。ジャック・フィニイさえあれば他に何もいらぬ、みたいな時期が中学〜高校の頃にありましたし、そのころ書いてた長編(未完ですが)はベタベタな「19世紀末へ戻るファンタジー」でしたし」ともいっている)。基本的にうっとうしいぐらいに介入してくる語り手は、それが物語りの展開に必要な場合を除いて、読んでいていらいらしてくる。おまえはそんなに偉いのか、と問い詰めたくなる。そういえば語り手タクトは「システム」という言葉が好きで、システムを自分で管理できない時や、システム外の未知のものに遭遇したときに、恐怖を抱く。物語の構造上、もっといてばタイムトラベル理論の必然的結論として、嘆いている語り手の介入はある種の必然だと思うが、作者はもっとうまく技巧的にそれをクリアしなければならない。そうしないと、作品をダメ(単なるノスタルジジイ)にしてしまう。
インタビュー: http://www.sf-fantasy.com/magazine/interview/050901.shtml

・ キャラクター造形
  いませんね、こんな高校生。この作品を愛してやまないだろうSFファンの高校生時代ともダブルようでダブラないのは、舞台設定は21世紀だからだ。そのへんのズレ(もっと簡単にいうと、「ああこんなふうに過ごしてみたかったな」)を楽しんでいるのだろうか。楽しみたくありませんね、正直言って。「頭のいい高校生」を描いてもよっぽど小説家の技量がないと、「頭よいと思い込んで振舞っている高校生」程度にしか見られず、はっきりいって愚かである。そして「技量ある作家に背伸びしている」作者の姿がちらちらと浮かび、はっきりいってダサい。ネット上ヒーローのダメ例は山本弘『神は沈黙せず』を思い出す。

・ 過去のSF作品へのオマージュ
  SFファンがこの作品を『SFが読みたい!』(2006年)に選んだのも、このあたりがよだれものだったのだではないかと推理している。しかし、はっきりいって物語りの主筋には関係ない。ペダンティックでありうっとうしいといえばうっとうしい。この程度のことで『SFが読みたい!』に選んでしまうのだとしたら、アホ以外の何ものでもない、SFファンは。内容理解できずに『ディアスポラ』選ぶ連中だから、まあしょうがないのか。どうでだろうか、みなさん。この作品は『SFが読みたい!』に入るのは妥当だろうか。

・ SFガジェット(タイムトラベル理論、〈倶楽部〉、地方通貨)
  正直、タイムトラベル理論は観念的な強引な解釈しかしなかったので、間違い等の指摘をしてくれると助かる。あと監視システムやら通貨やらで思うことがあれば。

・ その他
  向井さん日記は、文体・テーマに違和感ありで「微妙」という、きわめて妥当なものだった(「念のために書いておくと、読みづらいってのは別に文章が悪いということではなく、それはむしろ逆。細かいところの構成とか、きっちり書かれているという印象なので、再読してパズルピースを嵌めてみたいという思いも、ちゃんとある。でも逆に、あんまし再読したくないなぁという印象もある。なぜかっていうのが上で書いたような、主人公が(つまり作者が?)無条件に称揚する価値観とか思考法とか諸々に、ほとんどすべて留保しながら読むはめに陥ったからだ。てことはこれは相性の問題であるのだろう。もう一点、この作品はあとがきで作者が述べているように「シンプルな青春小説」なのだけれども、ともかくいかにも青春小説然とした佇まいの執拗なまでの繰り返しが、読んでいて少々うんざりする」)
どーんとやってみよう:http://www.jmuk.org/d/?path=2005/07/29


3:読書会後の感想

・「青春小説」とは何か
  青春小説とは何かをめぐって議論があった。青春を描いた小説は大まかに二種類に分けられ、一つは語り手が青春時代を回想しているもの(本書や『スタンド・バイ・ミー』など)ともう一つは語り手の視点やかかわり方が青春真っ只中の登場人物たちに極めて近いもの(『球形の季節』など)となるが、読書会では前者を青春小説、後者を成長できるかどうかが主要テーマである小説(青春小説ではない)といった区分でとらえようとしてみた。が、後に考えるに、後者も十分に青春小説であると思うので、もうすこし厳密に考えてみる必要があるだろう。なぜこのような区分を持ち出したかというと、青春小説は「ノスタルジーにあふれている」ことが必要条件だと、とりあえず考えてみたからである。前者だと、成長して過去を振り返っている語り手が前提されているため、どんなに語り手や主人公が困難に直面していてもやがてそれが解決されること(解決の失敗も含む)が暗示されるのだが、後者だと語り手すらはっきりと物語で登場人物たちが直面している問題に解決(あるいはその失敗)がもたらされるかどうかわからない、ということが十分にありえる。端的に言うと葛藤を一歩ひいて眺めるのか、葛藤に巻き込まれるのか、が両者の違いだ。本書はこの「一歩ひいた」姿勢・語り方があまりにも干渉的(かつ感傷的)なのではないだろうか。ちなみに語り手の立場が語られている物語よりも時間的にずっとあとだとしても、語り手のかかわり方が積極的である場合、つまり上記の区分でいえば時間的には前者に分類されるが心理的には後者に分類される物語を考えることも十分に可能である。この場合、語り手は青春時代以来抱えている現在的問題を青春時代を回想的に語ることで何らかの決着をつけようとしているといえるだろう(『東京エイティーズ』とかがその代表)。明確な答えを出せずとも語ることで少なくとも何らかの分節化はなされるからだ。もちろんこれらの区分は突き詰めていけば形而上的なものであり、語り手の強調したいもので決まる。そして一つの物語を通して一貫しているとも限らない。
参考:http://air.ap.teacup.com/o-s-d/13.html

・ リアルフィクション
  早川文庫JAで出版された本書は「リアルフィクション」と銘うってある。リアルフィクションの成立過程について詳しいものがいたので説明があった。曰く『ファウスト』などミステリ系では若手作家と読者が活躍する場やカテゴリがあるが、SFにはそれがないので、『SFマガジン』が中心となって「リアルフィクション」という語とともに若手作家・読者の獲得に乗り出した。それまでライトノベルで活躍していたSF色の強い作家、小川一水、冲方丁などが「ライトノベル」ではなく「リアクフィクション」というラベルとともに早川文庫JAで作品を発表した。「ライトノベル」をマーケット的に定義しようとすると、どうしても出版社と文庫レーベルがその第一基準となると思うが、その点で判断すると早川文庫JAは「ライトノベル」を出版していないと考えられていた(繰り返すがマーケット的定義である)。一方でライトノベル作家・作品を取り込みたいのだが、おそらく早川の矜持もあるのだろう、開けっぴろげにライトノベルであると喧伝することもしにくいので、「リアルフィクション」という名前を付けた、ということである。だから中身はきわめてライトノベル的だ(他のライトノベル文庫から出ていても違和感はない、という意味)。

・ タイムトラベルSF
 言及されている作品も多く、1巻にまとめられていた図は良くできている。『SFが読みたい!』で国内5位にランクインした理由として、「よくできた青春小説」「過去SF作品への言及」「面白いタイムトラベル理論」が主なものだと思うが、「過去SF作品」という点に関しては読書会では好意的な意見が多かった。『神は沈黙せず』を「とんでも事典」として読むように、本書を「タイムトラベルSF事典」として読むことも可能である、という意見もでた。ただ「タイムトラベル理論」については、かなり適当であることが指摘された(もちろん、フィクションだからダメだというのではなくダメなフィクションだから良くない、ということである)。

・ 全体的に
  わたしはかなり文体・語り方に抵抗を覚えてしまったのだが、読書会参加者はわたしほど抵抗を感じていたわけではなかったようだ。ホライズム原稿ではその語り方をマネようとしたのだが、見事に失敗し(?)、ホールデンのようなホールデンでないような、そしてとても気持ち悪いものが出来上がってしまった。この原稿を音読することから読書会を始めたのは、悪趣味でよかったかと思う。作品を読む前にこの作品で読書会をやると宣言していたのだが、もし作品を読んでいたらこの作品では読書会をやらなかったことは確かだ。その程度の面白さでしかない。