DATA

開催日:2005/12/8
レポーター:大内
課題:廣野由美子『批評理論入門』

RESUME

「批評のための方法論、小説技法編」
題材 廣野由美子『批評理論入門』

 

書評をする目的
 我々SF研究会は発行する全ての部誌で批評を行っている、対象は小説に限らずTVアニメ「ガンダムX」や劇場アニメ「イノセンス」、新書「動物化するポストモダン」などSF小説に限らず今までに様々な媒体・ジャンルで批評を行ってきた。
 今回、この批評活動を分かりやすく解説するにあたって、まず批評をする理由から入りたい。このサークルは一応文芸サークルである。メンバーもジャンル・量は違えども、今までに何がしかの読書経験のある部員で構成されている。
読書とは内的活動、ただ本を読むだけであれば、読んだ本人が著者との対話や知識を得ただけに留まる。しかし、自分の価値判断や批評理論を用いてテクストに解釈を加えることで、そのテクストはまったく新しい存在へと変わる。
読書で得た知識・感銘・疑問などを元に作り上げた批評を他人に伝えて反応を見る、それによってまた新たにより理解を深めることができる。それが批評をする目的である。

デイヴィッド・ロッジ『小説の技巧』を元にした 廣野由美子『批評理論入門』中公新書をさらに紹介、そんな孫劣化コピーですが。今回はホライズム29のWSを批評の題材にする、主に使用する作品は『メイドロイド綾』『進路指導』『サンカ』『鳥たちの舞踊』である。

小説技法
冒頭 
現実と虚構を分ける敷居が冒頭である。多くの著者はここに多大な注意を払う、小説全体のプロットが書けてから冒頭を書き始めるべきだという意見もある。冒頭は小説世界を紹介する最初の手がかりとなっている。
例.『仮面の告白』「永いあいだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言い張っていた。」ある男が、幼少時からの自分の姿を冷静に振り返る形式のこの小説はこんな出だしから始まる。読者にとって冒頭部分は、小説世界の登場人物のまさに誕生の瞬間である。読者と冒頭、語り手と冒頭、この相似な関係によって著者は読者が小説世界に入り込みやすくしたのである。・・・たぶん。

ストーリーとプロット
ストーリーとは出来事を時系列に並べた文章、プロットとは因果関係を元にして物語が語られる順に出来事を再編集したもの。作者は、自分が読者に伝えたいことが効果的に伝わるように出来事を組み替える工夫をしている。これによって、お話が盛り上がる(サスペンス)。出口の『進路相談』では、成長した登場人物が現在で語り、それから過去の自分を話し出す。そして最後に登場人物が自分の話を終える。冒頭から語りの形式にしなかったのは、この語りが教訓・主張を含むものであると強く宣言したかったため?

語り手
だいたい2種類。1人称の語り手(物語世界内的語り手)、3人称の語り手(物語世界外的語り手。全知の語り手)である。語り手は人称だけではなく、読者にとって語り手の言葉が心理だと信頼できる「信頼できる語り手」と、語り手の価値観が妥当かどうか読者に疑問を起こさせる「信頼できない語り手」に別れる。語り手がナルシストっぽい文章って鼻につくじゃん、そんな感じ?例えば、理性的ではないけれど庶民的で共感できる語り手であれば、一部の読者は物語世界により引き込まれる。例『メイドロイド綾』
 例として『アルジャーノンに花束を』は典型的な「信頼できない語り手」である。語り手は知的障害者で、初期は平仮名だけの頭の悪そうで純朴な語りである。しかし、物語中に脳の手術を受けた後は、高い知性を持ち性格が悪くなった語りへと変化する。そして主人公が経験した同じ出来事も、手術前後では主人公の解釈が全く異なる。この語りの変化によって人間の幸せとか知能とか、そういうことを引き立たせている。・・・と思う。

焦点化 語りに先立って物語世界がどのような眼差しで把握されているのか?
 語り手は必ずしも自分が見たことだけを語るわけではない、他人が見たこと・感じたこと・考えたことを語ることもある。誰が、どの場所から物語を見ているのか?見るという行為を「焦点化」といい、見ている人物を「焦点人物」という。

図1
外的焦点化
見る眼差しが物語の外にあることを指す。焦点人物が語り手であれば、物語を客観的に語る形式。『筒井康隆の文藝時評』で筒井は、外的焦点化こそがハードボイルド本来のパースペクティブ(perspective:観点)と主張している。ただ、どうも学者の言う外的焦点化と筒井の言う外的焦点化はズレているようだ。ぶっちゃけこれは難しい、具体例もあげられない
内的焦点化
見る眼差しが物語内にあること。『雪を掘る人』のミライ子・ジイが登場する章では、出来事をミライ子・ジイが観察し、考えている内的焦点化をしている。彼らが登場する章では彼らが見て、感じたことしか書かれていない。

固定内的焦点化
焦点人物が作中人物の中で固定されていること。出口の『進路相談』では一貫して、教師が自らの半生を見つめなおしている、そこに他者の解釈や考えは割り込んでくることはない。

不定内的焦点化
焦点人物が作中人物の間で入れ替わる形式、主観の人物が入れ替わる。『メイドロイド綾』では、届いたメイドロイドとの幸せな生活に浸る「俺」から、後半で植物人間となった「俺」を見守る「妹」に変化している。焦点が入れ替わることで幸せな生活が、不幸な結末に終わったことが明らかになる。

多元内的焦点化
焦点人物が入れ替わり、同じ出来事が多方面の視点から様々な解釈を加えられていること。推理小説の謎解きの場面で、犯人が犯人の視点から語り手からは見えない事件の裏側を自白するシーンとかは典型。複数の人物が同じ出来事を多方面から語ることによって、一方からでは見えなかった事実が明らかになる。人物よりも出来事にカタルシスの重点を置きたいときに効果を出すかも。
『メイドロイド綾』を多元内的焦点化によってリライトするならば、「俺」が入院後「綾」が発見されて彼女の無機質な視点から蜜月を冷酷に語らせたり、あるいは「綾」は「俺」を騙したことを認識していないで哀れに主人を探させたり、とかになるのではないだろうか、面白いかも。

提示と叙述
 提示とは、語り手が出来事をあるがままに示すこと。叙述は、語り手が出来事を状況から人物の説明や感情まで読み手に解説すること。大切なシーンや緊迫感・即時性のあるシーンは提示。あれだ、ガンダムの戦闘シーンでいつも「激しい戦いだった」で終わったら最悪だろ?逆に、話が繰り返されるシーンや語り手の解釈が必要なシーンは叙述される。
 『メイドロイド綾』ではメイドロイドと「俺」の夜の生活については提示されていない、もしその情景が一切の要約もなく提示されていたならば読者はうんざりさせられ、「俺」に対して共感できなくなったであろう。
提示と叙述は小説には両方大事。どこを提示するか、叙述するか、これで作者がそのシーンをどう捉えているか分かる・・・じゃない?

時間
物語の途中で過去の場面や出来事に移行する「後説法」、まだ生じていない出来事を予知的に示す「先説法」、ある程度進んでいる物語を途中から語りだす「イン・メディアス・レース」
「省略法」それから1ヶ月がすぎた。       
「要約法」食っちゃ寝していたら1ヶ月が過ぎた。 
「情景法」家に帰ると、パンがおいてあった。   
「休止法」これあんまりおいしくなかったんだよな、と俺は思った。 
『メイドロイド綾』の前半と後半の間では語られていないが時間が経過している、具体的にどのような変化があったのかは、「省略法」によってまったく省略されている。

性格描写
登場人物がどのような性格をしているのか分析し、それが物語にどう関与してきたかを考察する手法。『メイドロイド綾』の主人公「俺」は、電源を入れていないメイドロイドの頬が無機質に感じられたことで販売会社Mに、いきなりクレームをつけようとする。これさ、コンセント繋いでないのに温風でねーよこのドライヤー!!って言ってるのと同じくらいDQNだよな。
このようにカッとなると何も考えないで向こう見ずな行動に出る安易な性格が、後のメイドロイドとの逃避行や口座番号をメイドロイドに教えてしまう失敗に繋がっている。というように分析・批評を下すことができる。
また、あくまで「俺」がメイドロイドに求めるものは「共同生活を営む夫婦」である。作中で暗示された、性的な欲求を(名目だけだとしても)押し付けない「俺」の控えめな性格には作者の性格を推察することができ、一部の読者を惹きつける何かがある。

アイロニー
見かけと現実との相違が認識されること、そこから生じてくる予想や期待が外れた。
「言葉のアイロニー」表面上述べられていることと違う意味を読み取らせようとする表現
「状況のアイロニー」意図されたり予想されたこととの間に相違がある場合を指す。
「劇的アイロニー」状況のアイロニーの中でも特に、出来事の事実と登場人物の認識が一致していないアイロニー。

言葉のアイロニー
 『サンカ』では、家族制度が崩壊した世界に住む主人公はイラコから氏族・血族といった概念を最初はまったく理解することができない。さらに、主人公がイラコに対して成功しなかったのか尋ねるシーンでは、何の臆面もなく尋ねる主人公とあけすけな態度に嫌悪を示すイラコの間ではその言葉が持つ意味がまるで異なることを明示している。作者はこれによって物語世界の時代では家族制度が崩壊し、人工授精でただ子孫を残すだけの人の関係性が消失した世界になっていることを表現したかったのだと思われる、実際そう。

状況のアイロニー(劇的アイロニー)
 『サンカ』では後半のシーンでイラコが妊娠している人物を見て、妊娠を知らなかったために身体の変化を腫瘍だと勘違いすることで彼らの親しい関係が崩壊している。この出来事をもとにしてイラコは、家族制度を崩壊させた身分制度について疑問を持つようになった。そのきっかけと、関係性が劇的に破壊されることによるカタルシスを表現したかったのだと思われる、実際そのとおり。


作者の単一の意識と視点によって統一されている状態を「モノローグ的」、多様な考えを持つ複数の声や意識が独自性を保ったまま互いに衝突する状態を「ポリフォニー的」という。「ポリフォニー的」表現を使うことによって、単一の語り手には意識できない別の見方が明らかになる。例えば、語り手を別の声が批判することで「信頼できない語り手」を明確にすることができる。
『メイドロイド綾』においては後半で「俺」から「妹」へ語り手が切り替わるが、その時には「俺」は対話不可能な状態であり、ポリフォニーは発生していない「モノローグ的」である。
 
イメジャリー
 ある要素によって想像力が刺激され、視覚的映像などが喚起される作用をイメジャリーという。イメジャリーには主に3つある。
「メタファー」あることを示すために、別のものを示し、それらの間の共通性を暗示する場合
「象徴」特に類似性のないものを示して、連想されるものを暗示する場合
「アレゴリー」具体的なものを通して、抽象的な概念を暗示し、含みを持たせる場合
 
反復
 韻など語句だけでなく、同じような筋/出来事/場面/状況/人物/イメージが繰り返されること。『鳥たちの舞踊』のギミックは1ヶ月ごとに記憶を消される刑罰である、作者はこの刑に科せられた登場人物のセリフを冒頭と結末で繰り返すことで、友情を忘却する悲劇性を強調している。

異化
日常的な事物からその日常性を剥ぎ取り、異なった観点から新たな光を当てることを「異化」という。そのために、ある要素や属性を強調し、読者の注意をひきつけるように際立たせることを「前景化」という。『サンカ』ではお腹の膨れた妊婦を、妊娠という現象を知らないイラコが恐怖と驚きを持って、それを腫瘍と認識している。この経験からイラコは家族を知らないいびつな自分の存在を前景化し、その後から定義づけていった。

間テクスト性
文学テクストとは単体として成り立っているものではなく、つねに先行する他の文学テクストから何らかの影響を受けている。この関連性を「間テクスト性」という。これをWSで明確に解説することはかなり不可能に近いが、強いてあげるならば『鳥たちの舞踊』はBL作品、『メイドロイド綾』は最近の萌え作品に影響を受けているのではないだろうか?

メタフィクション
 語り手が語りの前面に現れて、読者に向かって物語自体についての口上を述べるような小説を「メタフィクション」という。この場合の語り手は作者には限らず、登場人物が別の登場人物に語り、それをまた聞いた登場人物が語るような形式もメタフィクションだったような気がする。入れ子構造。詳しくは巽孝之『メタフィクションの思想』を読むといいよ。WSでは誰もこの手法を使わなかった、メタフィクションは短編には向かない理由もあるが、作者が前に出て語りだすと、物語の虚構性が明らかになってしまうためだ。

結末
 小説の終結の仕方には、大きく分けて2種類ある。ひとつははっきりとした解決に至って終結する方法で、「閉じられた終わり」と呼ばれる。
 最後なのでWS全作品を分類してみよう。『鳥たちの舞踊』は冒頭に戻る、『メイドロイド綾』は悲劇的結末、『モウヒトツノアス』は多重の結末?『進路指導』はニュートラルな終わりなので閉じられた終わり、『サンカ』は多重の結末、『ブルータワー』は意外な結末だろうか。

最後に
 既に知っている内容であったら長々と付き合ってくれてありがとう。これから書評を書く上で助けとなれば幸いです。題材に使った『批評理論入門』はこれで半分です、この後は批評理論ですがまたの機会に。


[トップを表示する]