開催日:2005/10/13
レポーター:出口
課題:レイ・ブラッドベリ「浅黒い顔、金色の目」
RESUME
レイ・ブラッドベリ「浅黒い顔、金色の目」『スはスペースのス』(創元SF文庫)収録
・ 作者紹介〜ブラッドベリ
言わずと知れたSFの巨匠。1920年にアメリカのイリノイ州生まれ。7歳の頃から叔母の監督のもとでポーやコリンズなどを読む。8歳で未来とファンタジーに心惹かれ、12歳でタイプライターを入手し書き始める。19歳で雑誌に載り、以来書き続ける事となる。1947年と1948年にオー・ヘンリー賞を、1954年にアメリカ芸術・文学協会賞とカリフォルニア・コモンウェルズ・クラブのゴールドメダル賞受賞など、SF作家としては異例なほど米国の現代作家として受け入れられた。1950年に書かれた「火星年代記」と1953年の「華氏451度」が代表作。
・ あらすじ
地球は原子爆弾によって破壊されるのではないか。そんな不安から火星へと避難する者達が現われた。彼らはいつでも戻れるつもりで来たのだが、その後N.Y.に原爆が落ちて都市は壊滅、帰途が絶たれる。彼らは火星で植物を栽培し、火星の地形に自分達で名前をつけていくことで火星の植民地化を進めるのだが、あるとき主人公は火星と地球とでは作物や草花などが微妙に違うことに気付く。人々は徐々に浅黒い顔や金色の目になっていき、最終的に地球から救助が来る頃には住民達は火星人へと変容を遂げており、救助隊員の一人が変容し始めるような描写を匂わせて物語の幕は閉じる。
・ 考えた事(論点含む)
1:地球人が火星に行くことで変容していくということから考えを詰めて行くと、人間が環境に依存していることにつながると思う。「われわれもまた子供なんだよ。少なくとも火星にとってはね。」(326頁)という言葉から、人類の出産がやり直されているといった印象を受ける(但し火星人としての誕生)。では、我々もまた地球で誕生する時には地球の寵児であったのか。この発言自体、擬似科学らしいガイア論か、それとも印象付けるための比喩か。
2:物語の中で人類が段々と火星語で地名を呼ぶようになっていくが、これは明らかに文化の継承がなされている。つまり身体だけでなく精神も造りかえられているわけだが、その原動力は最後まで明らかにされない。それは何か。また、地球人が火星に行ったら火星人になってしまうのであれば、火星人が地球に来たら地球人になるのか。仮にそれが地球人の祖先だったといった設定を加えると、ちょっと鶏と卵のどちらが先かを聞いているような気がしてくる。
3:この話を例えば地球⇒英国、火星⇒米国と置き換えると、インディアンの文化もまたその土地(つまり米国の土壌)に染み込み残ったと考えても良い筈であるが、現実的にはインディアンの文化はマイノリティーとして消えていった(少なくとも縮小していった)ように思われる。形を変えて残ったりしていたのかは、私はその方面に明るく無いのでわからないが・・・。実際に集団が環境によって変化することはあるか。また、あるとすればそれはどんな条件の下か。
4:このSFは、書かれた当時はSFだったかもしれないが、今となっては半ばファンタジーの領域に足を踏み入れていると感じてもおかしくはないと私は思う。これを現代に生きる我々がアレンジを加えるとしたら、どのようにしたいか。
俺であれば、まず火星人のミームを物質として設定しておき、火星の土壌に存在していた(もしくは寄生のバクテリアが媒介していた物質であるミームが感染など)ために作り変えられていくとする。30日程度かけて皮膚全体が変わっていき、最後には火星人へ、といった感じだろうか。
以上四点について話し合いたい。が、全て必ず答えなければならないとか、四点以外のことを話し合ってはならないというわけではない。自由な意見や視点を持ち込んで欲しい。
・ 雑学(または常識)
ジュディス・メリルに言わせればブラッドベリは伝道的ストーリーらしい。伝道的ストーリーとは「人間社会の技術よりも行為に関心を寄せた寓意物語、予言、夢想、警告」だそうだ。つまり科学を売りにしてないけれどもスペキュレイティブ・フィクションと言うわけでもないらしい。詩人と称されるのもそれゆえか。
また、今作品で原爆について触れているが、1945年のヒロシマのことがあってからというもの非常に「原爆による人類絶望の危機」という話が増えたこともあり、当時としては「原爆が危ないので火星へ行こう」という主張はSF業界では受け入れられ易かったのかもしれない。
・ 参考文献
レイ・ブラッドベリ「スはスペース宇宙のス」創元SF文庫、1971年
ジュディス・メリル「SFに何ができるか」晶文社、1972年
レイ・ブラッドベリ「華氏451度」ハヤカワ文庫、1975年
レイ・ブラッドベリ「火星年代記」ハヤカワ文庫、1976年