DATA

開催日:2005/5/3
レポーター:斎藤
課題:イタロ・カルヴィーノ『レ・コスミコミケ』

RESUME

Italo Calvino “LE COSMICOMICHE”
「コスミコミケ」とはCOSMIC(宇宙)とCOMICHE(喜劇)を合わせた題名である。

 

 刮目したまえ、これが文学だ。
 などと偉そうな口を叩ける身分ではござあせんが、とにかくこれはすごい作品なのである。何がすごいってそのわけのわからない奔放なイメージと(へ)理屈の洪水である。各編を一つ一つ挙げていくことはしないが、私が好きなのは「ただ一点に」のPh(i)NKo夫人である。宇宙が拡散する前、全てが一点に凝縮されているときに多数の人格的存在がいてしかもそれが「夫人」ということは男女の別があってさらに誰かと婚姻関係があって、でもって「ねえ、みなさん、おいしいスパゲッティをみなさんに御馳走してあげたいわ!」とか言うのである。なんかもう「お前間違ってないか」とか「ありえなーい」とか言ってる場合ではなく、ただひたすらその想像力のすごさに圧倒され、あるいは爆笑させられる。
 しかしこの作品はまぎれもなく文学の文学たる特権をいかしているのである。文学ならばこそ論理や法則、さらには真実からも自由な創造ができるのだ。例えばこの連作中一編でも視覚化できようか。まず不可能であり、できるとしたらこの作品のイメージを劣化させたまがいものしか作り出せまい。
 ここで面白いのはこの我々の世界からは遠く離れたイメージの文学世界が、科学に接近しているということである。この短編集の冒頭には科学的(?)な導入がある。事実、我々の生活世界から離れた科学的現実は幻想的ですらあり、その先端たる理論物理学は最早その数学的イメージのみから成り立っているという点で限りなく文学に近くなる。ここで現代文学と現代科学の恐るべき出会いが生ずるのだ。
 だがこの芸術と科学の出会いとはある種の回帰現象であるということも言える。かつて科学は文学と近かったのである。たとえば「二等辺三角形の長辺の二等分線は広角と交わる」と言ったとき、人はそこに文学を見出していたのであり、また音楽も数学と近親関係を持ち、さらには天体の運行とも結び付けられていたのである。芸術と科学との再会、これはある種カルヴィーノ的想像をかきたてはしないだろうか。

 さて、話題としましては、
・ ついてこられた?いや、完全にカルヴィーノについてこられる人間なんていないから安心して。とにかく面白かった?どの話のどこが?
・ カルヴィーノ的マジックが文学作品以外にも存在しないかなあ。
・ 実はこれ日本では最初SFとして受容されたんだけどどう思う?
などです。カルヴィーノは出口君も(いや、彼のほうが)詳しいのでそこんとこよろしく。
(読書会後の付記)
 多くの部員にとって(特に新入生)初めてのタイプの小説だったようで読書会は大変盛り上がった。ただしハードSFファンの人には10段階中2点だと断言されてしまった。
 読書会では論理をつきつめて「超」論理にいたる文学である、という見解が出た。この場合の超とは論理を超えるということではなく、スピードを上げていって超スピードになるといった意味の超であり、論理と超論理は連続している。つまりカルヴィーノはあくまで論理の人であり、幻想の人ではないのではないかという意見である。
 また、カルヴィーノ的思考とは科学的「思考」あるいは「姿勢」であり、科学的「真実」ではないという意見もでた。さらに科学的「真実」(格編の冒頭の文章のような)を超論理的、文学的に突き詰める、あるいは裏返すことによってこのような奇妙な世界が広がるのではないか、そういった意味で、科学を根底においた実験としてのSFを、さらにSF的思考による実験にさらしたものではないかという見解も出た。
 皆が意味不明とした「空間と形」について限SF研総代表から、文章の線形性(つまり一次元性)と書かれた文字の二次元性についての小説であるという素晴らしい解説があってSF研の未来は明るいと感じた。
 
 あと個人的にはカルヴィーノの作品にでてくる女性像がなんか好きである。手が届かない、失われた思い出としての存在。ただしそれが明るく描かれているのがイタリア的なのか。
 これと関連しているが、この短編集はqfwfq氏の回想譚の形をとっている。これがカルヴィーノの回想譚とも読めるというのは一理あるであろう。ただし語り手と作者とを同一視することにはやや違和感がないでもない。
 


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