DATA

開催日:2004/11/22
レポーター:えびお
課題:ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えた』(ハヤカワ文庫FT)

CRITICISM

『すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えた』

〈あらすじ〉

ティプトリーのエッセイ「キンタナ・ローのマヤ族に関するノート」、連作小説「リリオスの浜に流れついたもの」「水上スキーで永遠を目指した若者」「デッド・リーフの彼方」からなる本書は、ティプトリー自身のキンタナ・ローに対する思い入れがあふれる作品集となっている。ティプトリーはキンタナ・ローへ旅行しダイビングもしたことがあるようで、その時の体験がもととなっていることは確かである。物語全体は、実験心理学の研究体験をもつもの書きが、アウトサイダー「グリンゴ」として拙いスペイン語を操ってキンタナ・ローで過ごしている時に出会った人から聞いた「幻想的な話」を語るという構造をもっている。「リリオス」では、語り手の前に現れた旅人がある日海岸で助けた男/女との出会いを語り、「水上スキー」では純血マヤ族のコーが水上スキーに乗って「過去」へと飛びたちマヤ族の遺跡に刻まれたことを漁船船長が語り、「デッド・リーフ」ではある仕事でキンタナ・ローへ立ち寄っていた男がデッド・リーフでダイブしていた時に遭遇した人間を模倣した廃棄物の塊について語る。物語は嘘とも本当ともつかない夢のような幻想性でもってかすみのように捉えどころがないが、(解説にあるように)「搾取されつつある自然からの悲鳴」が本書全体のトーンを支配している。

・「語り」の多層性

この物語を支える一つの重要な要素に「語り(narrative)」があげられると思う。ティプトリーの物語は「第三者の視点」から語られるものよりも、「一人称」の当事者として物語に関わる構造をもつものが多い。特に、「会談話」にちかいような本作では、ティプトリーは慎重な姿勢でもって作中語られる物語の信憑性を奪っていく(引用[1]から[3])。

[1] そうしてみてわかったが、わたしはあの話を信じていない――というより、表面的なディテールや状況は信じていない。ひょっとしたら、あれはあの若い友人を訪れた、平安を得られない霊の仕業かもしれない。大昔に死んだスペイン人か、亡霊になった征服者か、幻の黄金をさしだす両性具有の冒険者か、生と死のはざまの影の国から来る生命に飢えた悪魔か。それともずばり、あの青年の頭がおかしかったのか。しかし、その可能性もやはり信じられない。(83)
[2] 「いやはや、まいったな――忘れていたよ、マルシアルからきみのことを物書きだとしらされていたのを…しかし、あらかじめ承知しておいてもらえるかな。わたしの言葉意外、この物語には一片の証拠もないことを? そしてわたしの言葉は…君の考えている程度の確実さでしかないことを」
「私にとってはそれでじゅうぶん」(158-59)
[3] 「海は広い……。それとも、この話全体が長年こいつを飲みつづけた結果の神経症から生まれたものかもしれない」
いつのまにフラスクを取り出したのか気が付かなかったが、今の彼はたてつづけに二度、身震いしながらぐびぐびと酒をあおった。(177)

本作の語り手は、「ダイビングやシュノーケリングが趣味の、老齢の実験心理学者であり物書きで」「リゾートの観光客というよりは、長期滞在型の旅人である」(越川「解説」より)が、この姿はティプトリーがまだ男性であると信じられていた時に、一部で想像されていたティプトリー像と重なる部分があるように思える。ロバート・シルバーバーグがはからずも想像してしまったような(引用[4])、時にヘミングウェイと比べられるマッチョ・ライター・ティプトリー像には、確かにキンタナ・ローでのダイビング姿は似合いすぎるほど似合う。

[4] It has been suggested that Tiptree is female, a theory that I find absurd, for there is to me something ineluctably masculine about Tiptree’s writing. [. . .] Tiptree’s stories don’t bore. They are lean, muscular, supple, relying heavily on dialog broken by bursts of stripped-down exposition. [. . . ] I think his work is analogous to that of Hemingway. [. . .] And there is, too, that prevailing masculinity about both of them ? that preoccupation with questions of courage, with absolute values, with the mysteries and passions of life and revealed by extreme physical tests, by pain and suffering and loss. (Silverberg xii, xv)

この作品群が書かれたのは83年から85年にかけてであり、ティプトリーの正体が明らかとなったのは77年であることを考えると、ティプトリーはアリス・シェルドンの人生とティプトリーの「人生」を交錯させ、その延長上に本作の語り手を位置付けたことがわかる。

・「われわれの血は、それの本質であり、われわれの血管に流れている」(84)

問題は、どうしてそのような構造を作り出したのか、ということに尽きる。それはこのような形で語ることがふさわしいような「何か」があったからではないか、と考えられる。搾取される自然の「復讐」といってしまうことはたやすいが、ティプトリーもあまり容易にその単語へとひきつけることを躊躇っている様子も見られる(引用[5]から[7])。

[5] なによりも気になるのは、なにかが…あそこで彼のそばへやってきたこと、こうしたすべてのものより奥深いなにものかが、あのような姿をとり、彼を探し出し、誘惑しようとしたことだ。…いったいそれはなにものだったのか?…もしわたしの友人を訪れたものが海そのものであったとしたら、それが両性具有の姿をとっていたことになんの不思議があるだろう。(82-84)
[6] 「その女は生きていた…ご存知のように、海中ではいろんなものがゆらゆら動く、そうだね?…しかし私がみたのは、そんな種類のものではなかった。…その女が笑みを浮かべたとたん、まず片腕があたりにガラクタをまきちらしながら、潮の流れに逆らってこちらへ伸びてきただけじゃなく、つぎにもう片腕ももうそれをおなじことをやっていた。しかも手が届かないと判ると、その恐ろしい人形、それとも怪物、それとも生命のない生き物は、またもや潮の流れにさからって、なんと上体を起こし、今度は両腕をいっぱいに伸ばして、私を捕まえようとした。」(172-73)
[7] 「うまく言葉にできないんだがね。なんというかな、それは海がいま現在でも協力だという考えと関係がある。ひょっとすると、海には復讐がかのうなのでは? いや、それじゃあまりに単純すぎる。よくわからない。ただ、なにが人間を襲ってくるかに関する我々の知識は…そんなに深くもないし、広くもない。どうも表現がまずいな。だが、ひょっとすると海は――それとも自然は、人間の手にかかっておとなしく死んでいったりしないかもしれない…ひょっとすると、死そのものが、恐ろしい生命を備えて逆襲してくるかもしれない。もっと機械的な破滅だけでなしに……」(178-79)

「リリオス」では海岸に打ち捨てられたゴミ、拡大していくリゾート開発、「水上スキー」ではロブスターの乱獲、「デッド・リーフ」では海に捨てられ不気味な塊となった廃棄物、水中銃をもってアメリカからやってくるダイバー、など自然の搾取者とその結果は遍在している。「幽霊」を混沌とした境界の向こう側からのメッセージとして解釈しナラティブに再構築したことが、柳田國男を創始とする日本民俗学へインスピレーションを与えたラフカディオ・ハーン=小泉八雲の功績であるとするならば、そこには、本作における白人「グリンゴ」が汚染されつつあるマヤ族の土地で伝え聞いた話を一種の「怪談話」へと構築することとの、明らかな類似関係を指摘することができる。この類似した二つの語りには無意識的な境界確定の欲望が見え隠れする。

・「マヤ族」とは何か(坂本さんではありません!)

ティプトリーはキンタナ・ローという土地が好きであり、マヤ族に関してもいくつものエッセイを残している。興味深いのは「男たちの知らない女」(73)にはユカタン半島のベリーズまで釣をしに行く男や、その男がチャーターした飛行機のマヤ族であるパイロットが登場し、飛行機の故障で不時着したのはユカタン半島のマングローブの生い茂る「水の原野」である(解説の越川氏が作品名に触れていながらも、なぜ作中のマヤ族やユカタン半島について言及していないかは不明)。「男たちの知らない女」(あらすじは引用[8])では、マヤ族パイロット、キャプテン・エステバーンは、遭難した母娘(ミセス・ルース・パーソンズとミス・アリシア・パーソンズ)の娘と、母とフェントンが飲み水を求めて探検に出ている間に、性的関係をもつことがほのめかされている(引用[9])。

[8]What motivates Tiptree to construct “all women world” with “relaxed, cheery, practical mood” is also found in “The Women Men Don’t See.” In the story it motivates Mrs. and Miss. Parsons to escape from two men, Don Fenton and Captain Esteban, leave male-dominated society, in which all women are alienated to some degree by men, and ask the extraterrestrials to take them from away from earth to where they live. The story is about two men and two women, whose airplane accidentally has to belly land on the sandbar because of its engine troubling. When Don Fenton, the narrator, meets two women for the first time, he does not have any particular impression of and interest in them, “registering nothing. Zero” (131). He, however, gets more and more interest, particularly sexual one, in Mrs. Parsons, during their excursions to find the river for the purpose of drinking. He is gradually sexualizing her body and that has climaxed when he and she share one serape to keep them warm. He disgustedly thinks: “If I were twenty years younger. If I wasn’t so burned” (142-43). It is suggested that Mrs. Parsons works somewhere in Washington and her work has something to do with CIA, where Tiptree works as a photo-intelligent officer, or some government office like that. She talks to Fenton about her or women’s “alienation” by male-dominated society, “Women have no rights, Don, except what men allows us. Men are more aggressive and more powerful, and they run the world” (153). In such a world, says she, “What women do is survive. We live by ones and twos in the chinks of your world-machine” (154). So suffocating and oppressive is the world where she lives that she dreams sometimes of going away from the world, where there are “all the endless wars. [. . .] All the huge authoritarian organizations for unreal things. Men live to struggle against each other; we’re just part of the battlefields. It’ll never change unless you change the whole world” (154). Therefore it is not surprising that when aliens emerge in front of Fenton and Mrs. Parsons, Parsons is more sympathetic to aliens than to Fenton and the male-dominated society behind him and represented by him. This is obvious from her saying. When he cautions her against aliens saying: “they’re aliens,” she without any hesitation responses absently that “I’m used to it” (160). It is this instance when Tiptree presents before all of us the accusation that for women alienated by men in male-dominated society the extraterrestrial is more familiar than men living on earth.
[9]「じっさいの話、ルース、あんたが一緒にくるといったときには驚いたんだ。感謝はしている。だがこっちは、アルシアをパイロットと二人きり残していくほうが気がかりじゃないのかと思ったんでね。それとも私のほうが心配か?」
「キャプテン・エステバーンは男性として立派なタイプだと思うわ」
「エステバーンは男だ。アルシアは彼に興味を持っているように思えたがね」
「マヤの人たちは、人間として立派なタイプに見えるわ。あなたもアルシアにそんなことをおっしゃったと思うけど」
「ルース、いまのことばは、あんたのほうに半分インディオの血が混じった孫を受け入れいる用意があるということなのかな」
「さあ、それはアルシアの気持ち次第だわ」
きちがいじみたイメージが内にふくらむ――子々孫々にわたって子種を選別し、受胎旅行を重ねる孤独なパーソンズ家の女達。まあ世の中もその方向に動いているとは聞くが。(「男たちの知らない女」265-268)

地球の男達を見限って宇宙人とともに旅立つ女性たちは、マヤ族の「精子」をもっていく――ここにティプトリーのマヤ族に対する思いが見えるのではないだろうか。女から見れば非難すべき社会構造をつくり維持している男達の中にあって、マヤ族とはまだ「自然」に近く、比較的「マシ」である、といったものが。思い出すのは文化/自然という二項対立であり、この対立構造は男(cultivating subjects)/女(subjects to be cultivated)というものへとずらすことが出来る。マーク・シーゲルの指摘に従えば、この闘争の場がキンタナ・ローであると言える(引用[10])。「水上スキー」の物語においても、「純血」マヤ族のコー(神の名)は、環境破壊が進む現在を抜け出し、過去へと飛翔する。まるで「男たちの知らない女」の女達のように。またコーがアメリカの映画撮影の時に、したことも、コーあるいはマヤ族と自然の一体化・同一化(identification)を示す好例である(引用[11])。

[10]Perhaps most importantly, each frame-tale describes the Quintana Roo as one of the last strongholds of nature and as virtually a root-source of the Earth’s power and magic. It is a place where the subtle balance between nature and the native inhabitant is now beset by the pollutions of the tourista. (Siegel 65)
[11]K’o is identified with the sea and with its revenge, when, dressed as a shark for a cheap American movie, he actually carries out the director’s imagined rape of the film’s starlet. (Just as K7o is identified in his revenge with the shark that earlier in the story is presumed to be still sleeping, the ghostly aristocrat in “Lirios” is identified with a sleeping tiger that suddenly springs to life and bounds over the head of the Walker.) (Siegel 67)

・「境界解体の快楽と境界解釈の責任」(Haraway)

しかし、マヤ族の立場を文明/自然の対立図式において自然のほうへと無邪気にあてはめることは、やはり危険な姿勢でもある。グリンゴである語り手は「卑小な人類」というくくりでもって友人のマヤ族の漁船船長と共有できる一体感を言い訳に、「まるでユダになった気分で」(103-04)ほかの乱獲者に取られるぐらいならば、とロブスターの行列のことを教えるのであった(引用[12])。この「ユダ」的裏切り行為は誰にたいしてなされたものなのであろうか。語り手、マヤ族、乱獲者は全て「卑小な人類」であり、多少の立場の異同はあれどもロブスターを取るということでは、変わりはない。とすると、語り手は当初は自然のほうへと肩入れしていたことがわかる。ロブスターの存在を告げることで文明の側に分類されるマヤ族へと肩入れの仕方が変わる。裏切りものになったのだ。

[12]このやりとりのうちに招かれざるイメージが頭に浮かんだ。ここから200メートルほど岸よりを、無力なロブスターの群れがぞろぞろ移動している光景。何千匹ものロブスターが続けているのは、卑小な人間種族の誕生よりもはるか以前から始まった謎の旅だ。その旅はロブスターの生存にぜひとも必要なのだろう。よその土地では、乱獲が度を越している。ひょっとするといまでもすでに絶滅の危機にさらされているのかも。だが、その卑小な人間種族こそ私の種族であり、マヌエルは私の友人なのだ。(102) 

実際、ティプトリーは作家になる以前から、そしてなったあとも死ぬまで「境界」上をさまよいつづけた存在であった。幼少時のアフリカ・アジア体験は西洋/植民地として表れたに違いなく、また母メアリー・ヘイスティング・ブラッドリーの著作に登場する「アリス」というペルソナは行為主体なき主人公だったことも興味深い(引用[13])。軍やCIAに入った後は男の職場で周縁化される女として男女の境界を強く感じていただろうし、越川の示唆にあるようにCIAの組織に身をおくことにも内部/外部という分裂を体験しただろう(引用[14])。験心理学の研究をしていたときもやはり似たような圧迫感は感じていただろう。作家として活躍していたときは詳しく言う必要のないぐらい想像に易い。ティプトリーの作品に良く見られるモチーフ、「ここではないどこか(“true” home)へ帰る」は、ティプトリーがつねに感じていた違和感からの遁走であろうし、それを支える感情は境界の解釈多様性から由来し、巽孝之の言葉を借りれば「自己内部の怪物」の出現にほかならない(引用[15])。マーク・シーゲルは作品全体のトーンを「エイン博士の最後の飛行」「ビーバーの涙」といった「自然を搾取する人類」を扱った作品と比べたが、私はむしろ「故郷へと歩いた男」や「ビームしておくれ、ふるさとへ」、「そしてわたしは失われた道をたどり、この場所を見出した」に近いのではないか、と感じた。

[13]Alice had been a literary persona long before she became Tiptree and Raccoona, and long before Haraway’s influential text. [. . .] The choice of word point up Alice’s lack of agency in Mary Bradley ‘s accounts of this period in colonial Africa and Asia. (Larbalestier 183, 186)
[14]ティプトリー自身はCIA長官アレン・ダレスについて、情報局の「裏側のタイプ」と呼び、彼には批判的だ。…果たして、同じ組織で自分たちはクリーンな仕事をしたのに、裏の人間だけがダーティな仕事を請け負っていた、といって通るものなのだろうか。被害を受けた側からすれば、どちらでも同じではないか。…おそらくティプトリーはダレス一派を批判する自分自身の説明に納得できなかっただろう。そうした後ろめたさが彼女の内部に抑えられない「怪物」を産む、一つのきっかけになったのではないだろうか。(越川 187-88)
[15]彼女じしんの波乱にみちた生涯じたいきわめてSF的であったがゆえに、たとえ無意識に表出した部分でも、それはSFとほとんど弁別しえぬ表象形態をとったはずである。外宇宙からやってきた存在は、むしろティプトリー内部のあまりにも生々しい外宇宙として、あたかも彼女の肉体を食い破るように誕生した「自己内部の怪物」なのではなかったか。
自らの〈現在〉をSF的〈未来〉と錯誤し、自らの〈内宇宙〉をSF的〈外宇宙〉と錯誤すること。その根本には自らの〈怪物的な女性性〉をあえて〈男性的ロマンティシズム〉と誤読しながら書きつづけた彼女の姿がある。模倣的反復によるコミュニケーションを望みつつ、最終的には挫折せざるを得ないという運命のなかに、あのフランケンシュタインの怪物がよみがえる。(巽 19-20)

結局、真理値を伝達するだけでないコミュニケーションをその自己内部に抱える怪物ゆえに(無意識にあるいは意識的に?)必要としていたティプトリーは、多層な語りを必要とし、境界解体の快楽/境界解釈の責任の絶えざる運動の中へと自らの身を投げ込むことをしたのではないか。私はティプトリーの境界性をそう「construction=解釈・構築」したい。

〈引用文献〉

越川芳明「マヤ族と大自然の逆襲」ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えた』183-91。東京:早川書房、2004年。
巽孝之『現代SFのレトリック』東京:岩波書店、1992年。
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海へ消えた』東京:早川書房、2004年。
---「男たちの知らない女」『愛はさだめ、さだめは死』東京:早川書房、1987年。
Larbalestier, Justine. The Battle of the Sexes in Science Fiction. Middletown: Wesleyan UP, 2002.
Siegel, Mark. James Tiptree, Jr. Washington: Starmont, 1986.
Silverberg, Robert. “Who Is Tiptree, What Is He?” Introduction to Warm Worlds and Otherwise by James Tiptree, Jr. ix-xviii. NY: Ballantine Books.

 

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