DATA

開催日:2004/10/8
レポーター:大内
課題:ハーラン・エリスン「世界の中心で愛を叫んだけもの」

RESUME

著者略歴
Harlan Ellison
小説家、批評家、シナリオライター。
l 1934年、米オハイオ州生まれ。
l 1955年にニューヨークへ出、そこで出会ったレスター・デル・レイ?の家に居候しながら、小説作法を学ぶ。
l 56年に「光る虫」がインフィニティ誌に掲載され、プロ作家としてデビュー。58年、非行少年ものである処女長編『喧嘩』を発表。兵役を経て、59年にはハリウッドにその居所を移しし、『バークにまかせろ』『宇宙大作戦』『ヒッチコック劇場』など、数多くのテレビ番組のシナリオを手がける。
l SF作家としては1960年に長編第1作「The Man with Nine Lives」を発表。66年に、「“悔い改めよ、ハーレクィン!”とチクタクマンはいった」でヒューゴー賞、ネビュラ賞のダブルクラウンを獲得。以後、「世界の中心で愛を叫んだけもの」「少年と犬」などで多くの賞を受賞する他、『危険なヴィジョン』などの先鋭的なアンソロジーの編纂も務める。
l ファンダム時代は傲岸不遜なSFファンとして名を馳せ、SF大会で初めて会ったアイザック・アシモフに「なってねえなぁ!」と言った他、テレビ界に入ってからもフランク・シナトラと大喧嘩をするなど、武勇伝には事欠かない。SF界の中でもとりわけ型破りで、数多くの“伝説”に彩られた鬼才。
l ロバート・シルヴァーバーグとは仲が良い。アシモフとは喧嘩友達。
l 「あなたの作品がよく分かりません」というファンレターに対しエリスンは「どこかの馬鹿があなたの名前を騙って手紙を書いて来ました。早急に手を打たれた方がよいでしょう」という返事をよく出すらしい
はてなより引用

キーワード
【思弁的小説(スペキュレイティブ・フィクション)】
思弁的・哲学的SF。文学性を含んだものや観念的意味合いが強い作品を指すジャンル。
【ジャム・カレット】 
インドネシアの言葉でジャムは時間、カレットはゴムの意味。時間を気にしない生活スタイル、伸びたゴムのような時間の概念らしい。
【サイ・ファイ】
ファンタジーとSFをひとくくりに捉えた蔑称、ライトノベルって言葉に含まれるような軽い侮蔑的な意味合いがあるようだ。


今日の要点
この文庫の特徴として著者自身による、一読すると全く何を言っているのか分からない長い前書きがある。何を言っているのか一読した限りでは理解しにくいが、これを読み解くことは当時のSFがどのようにみなされていたか、それによってどう変遷して行ったか理解する格好の材料ではないだろうか。ちょうど、2030年のラノベ読みが20世紀後半からの日本SFのラノベ化を見るかのようにね。
さらに、SF以外の分野においても、昨今増加しているスペキュレイティブ・フィクションの祖であるこの作品を読むことは意義があると思う。

1.SFの歴史 よくご存知の方にはおさらい、
 SF(サイエンス・フィクション)のジャンルとしての歴史は1950年代と浅いものである、今日の著名な古典SFのほとんどが当時の、アーサー・C・クラークやアイザック・アシモフによるものであり、SFにありがちな破滅した世界を舞台とする小説もこのころにできたものらしい。
 言うまでもなくこのような初期のSFはタイムマシンに代表される古き良きセンスオブワンダーな、科学小説であり人々に科学の進歩の夢を見せた大衆娯楽小説だった。その後60年代になり、SFというジャンル全体が衰退した時期があった。それは、アメリカのアポロ計画に代表されるように科学技術の急成長の栄光とともに、人々が公害や管理社会など科学の暗部に目を向けるようになった時期でもある。
 そして同時に、娯楽向けの科学小説であるサイエンス・フィクションに科学発達への警鐘、軍拡や戦争への寓意を含むことが求められるようになった時代でもある。これをさらに昇華させた形として、従来のSFに人間のあらゆる思索的・哲学的(スペキュレイティブ)要素を持ち込もうとしたのがニューウェーブである、少なくとも当時はそうみなされていた。
むしろ、文学性や哲学を語る表現方法としてSFを使おうとした動きともいえる、ディックとかオールディスなんかもこれに含まれるらしい。しかし、このニューウェーブ運動も文学性を追うあまり読者から見放されていった。スペキュレイティブの方向性だけは80年代以降も続いているようだが。 
 解説を読むと当時のSF作家によるスペキュレイティブ・フィクションへの挑戦は、評論家たちによって「最近、スペキュレイティブ・フィクション増えてきているね。これが今の<流行り>のニューウェーブ運動ってやつ?(笑)」としかみなされていなかったようだ。
前書きでエリスンは、これは流行ではなくスペキュレイティブの豊かなジャンルが成長しつつあると強く主張している、ジャンルの成長と共に読者も娯楽小説としてのSF(サイエンス・フィクション)からより難解なSF(スペキュレイティブ・フィクション)を理解し始め、成長してきている。とも。こういう一面を知ると、わざわざ「理解できなかった」なんて感想を送ってくるファンに対しゲンナリしたのも無理はないかもしれない。


あらすじ
 SF的設定と哲学的概念を組み合わせたようなまさに世界の中心には交叉時点という世界がある、その使命は平和と愛を多元世界全てに拡大することのようである。その内部から悪を他の世界に排出する方法を発見したセンフ、代訴官(弁護士・検察に類似)への昇進を狙うライナ、彼らの世界から悪をすぐに排出すべきだと主張するライナと排出によって他の世界・他の時間軸に災厄を招くことを苦悩するセンフは問答を続ける。
いよいよ悪を排出する段階においてセンフは自らを排出に介入させることによって多次元に排出される悪の良心になることを試みた。作品内ではその結果として発生した2つの事例が挙げられている、殺人鬼ウィリアム・スタログの愛の叫び、侵略者フン王アッティラの退却はいずれも交叉時点より排出された、悪とそれに含まれたセンフの具現化した影響である。
 ライナはセンフの暴挙を訴えることによって代訴官への昇進を果たし、センフは反逆の烙印を押され、処刑される。処刑の間際に彼は一連のことを他の世界の人間に伝えるための記念碑を作ってくれるようライナに頼む。愛に微笑む、狂った殺人鬼の像が意味するメッセージは、我々の世界へと排出されてくる悪=地獄=竜には必ず、愛=センフが存在する。そして、世界の中心たる交叉時点に行けばそこは悪の存在しない天国である、と。
 
作品解説(個人的感想)
 センフの最後の願いと記念碑の存在が美しい、パンドラの箱に残った希望は常に君たちのそばにいるよ、とうまくキレイにオチをつけているのではないだろうか。ただ、代訴官ライナの動機付けがあやふやに感じた。
これは、著者の略歴・前書きにもあるように、バイオレンスで娯楽趣味のエリスンが、スペキュレイティブな主張・メッセージ(この作品ではパンドラの箱の教訓)をSFの手法で表現しようとした実験小説である。だが、エリスンの娯楽主義の一面が最後の段落に現れてしまった為に破綻してしまっている。
 異世界である交叉時点での二人のやり取りは幻想的というか菊池秀行のファンタジーのようでオチも美しいのだが最後の段落が全部ぶち壊しにしているように感じた、ヘタに第4次世界大戦って言葉を入れることで分かりやすくさせようとしてリズムを狂わせてしまったようだ、僕はこの段落さえなければ逆にメッセージが伝わりやすい小説になっていたと感じた。むしろあえてこれを裏読みすると、最後の「紫色の箱」自体が交叉時点の世界だとしたらどうだろう?交叉時点で拘束される竜の描写で、他の世界では拘束帯を付いた病院のベッドである、というように交叉時点は世界の中心であり、世界の相似形でもある。
 それを無理やり開けて交叉時点を破壊してしまったために、世界は救いのない第4次世界大戦へと・・・これはムリのありすぎる解釈だが。


論点
1 僕の作品解釈に誤謬がないだろうか?これでいいのかね?
2 特にライナの裏切りがよく分からない
3 この作品が今日、巷に溢れる思弁作品の祖であるようだが、現在の思弁作品の傾向は?流行っている?どんな内容が多い?

COMMENT


この作品のテーマ自体はパンドラの箱を題材としただけなので結構単純な構造だったが、それゆえ他の作品や現実の問題にカリカチュアライズされたものではないので読書会をやりづらい作品ではあった。



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