開催日:2004/6/25
レポーター:海老原
課題:ウィリアム・ギブソン「冬のマーケット」
RESUME
ウィリアム・ギブソン「冬のマーケット」
==彼女はポストヒューマンになれたのか==
…はじめて彼女を見かけたとき――彼女はビール専用の冷蔵庫をあけていた、中からもれる光で、頬骨ときつそうな口元が見えたが、それと一緒に手首で黒光りするポリカーボンと、その外骨格が皮膚とすれあってできたつるつるの傷跡も目に付いた。
【あらすじ】
ドライ・ドリームを商品として売るために編集の仕事をしているケイシーは、ある日友人の「ゴミ芸術家」ルービンが主催するパーティーでエグゾスケルトン=外骨格を身にまとったリーゼと出会う。リーゼを一瞬見たケイシーのその眺め方がリーゼの中に憎しみを生み、彼女はケイシーに性的に誘惑することで勝負を挑む。ケイシーはリーザとセックスはしなかったのだが、代わりに「直結」をする。そして編集者としてのケイシーはリーゼのドライ・ドリームに商品価値をかぎつけ、マネージメントを始める。リーザのドライ・ドリームはケイシーの手によって編集され、商品「眠りの王たち」として売り出され、空前のヒットを記録する。しかしリーゼは以前から服用していた麻薬ウイッズによって体を蝕まれており、ケイシーがそのことを理解したときには、もう既に取り返しのつかないことになっていた。リーゼは自分の作品で稼ぎ出した金で肉体を持たない「プログラム」として死後の世界を生きることを選択したが、そのことにケイシーは戸惑いを隠せない。そしてリーゼの死にケイシーは責任を感じていた、「おれが彼女を見殺しにした」と。
【サイバーパンク・ドリーム】
ウィリアム・ギブソン――サイバーパンクの旗手、であるが、さてそもそもサイバーパンクとは何なのか、いや何だったのか。この読書会に先立ってギブソンの代表作『ニューロマンサー』を読んでみたのだが、80年代の熱気を感じられない今となっては「ふーん」といった程度の感想しか抱けない作品であった。翻訳者による解説のテンションの高さはとにかく異常である。とりあえずサイバーパンクのエッセンスを知るために、『20世紀SF 5』の中村融による巻末解説から引用してみた。
(1) 彼ら[サイバーパンクSF作家]もまたSFは科学技術に根ざし、現実をリアルに描かなければならないと主張したが、その科学技術や現実の見方が従来のSFとは違っていた。彼らにとって科学技術とは、人間の外にあるものではなく、その内側にまではいりこんで人間性を変容させるものであり、現実とはメディアが作り出した仮想現実に他ならなかった。これはコンピューター・サイエンスやバイオテクノロジーが人間の定義そのものをゆるがせ、ヴィデオやウゥークマンやパソコンが人々の意識を変えつつあった80年代に即応するものだった。しかも、彼らは従来のSFが基本とした「一部分を変えて、なにが起こるか想像する」という手法を捨て、「あらゆるものがいっせいに変化した姿」を描こうとした。ここで強調したいのは、彼らの作品が人間性の変容を否定も肯定もせずに描き出したことだ。従来のSFが科学技術による人間意識の変化を「人間性の喪失」としか捉えていなかったのとは大きな違いだが、これは科学技術によって人間が「ポストヒューマン=人間以降のもの」に変わっていくというサイバーパンクの基本認識のあらわれである。したがって、彼らの作品には電脳空間と身体改造のビジョンがあふれることになり、登場人物の多くはストリートに生息するアウトロー・テクロノジストとなった。この点が旧来の人間観に立脚する者たちの猛反発を買ったわけだが、ジャンル外の読者をも惹きつける要因となったのである。(中村479)
あるいはHeather J. Hicksは “Whatever It Is That She’s Since Become: Writing Bodies of Text and Bodies of Women in James Tiptree, Jr’s ‘The Girl Who Was Plugged In’ and William Gibson’s ‘The Winter Market’”という論文で、次のような指摘をしている。
(2) In speaking of the emergence of the enormously popular genre of science fiction known as “cyberpunk,” numerous critics have acknowledged the conspicuous degree to which its major authors privilege disembodiment over embodiment. (Hicks 64)
ヒックスの指摘に従えばdisembodiment/embo-
dimentの二項対立にサイバーパンクの問題意識は回収することガで生きるかもしれない。そしてdisembodimentの向こう側に我々はポストヒューマンなる生き物を見ることができるのだろう。しかし事はそう単純なものではないようだ。
(3) Clearly, the marked historical shift toward “theoretical” white-collar
work [. . .] has only intensified women’s stake in shaking the entrenched Western
association of woman with “body” and man with “mind.” (Hicks 65)
(4) [W]hile the bodies of the service workers played no part in the execution
of their work?except for their typing fingers?the gendered bodies of these workers
most certainly had played a part in the nature of the work they were allowed
to perform. (Hicks 66)
(5) It is in their representations of such cybernetic realms that the cyberpunk
movement has become a forum where the cultural stakes of women’s association
with the body in postindustrialism are worked out. (Hicks 67)
ヒックスが指摘したのは、ポスト工業社会では工業社会で要求されたような肉体を駆使する労働ではなく、頭脳労働が必要とされるようになるので、労働者の性質も変容するのではないか、女性の社会的地位も向上していくのではないか、という従来からある意見への疑念である。男性=頭脳(mind)/女性=身体(body)という古典的二項対立はヒックスがインターン(のようなもの?)で学部生時代に働いたことがあるハイテク産業の現場で確認できるものであった。そこではホワイトカラー労働者は白人の男性がほとんどである一方、ハイテク部品の組立工場でベルトコンベアーやロボットに囲まれて作業をしているのは有色人種(おもに黒人)の女性であったのだ。
ここでギブソン「冬のマーケット」に戻る。果たしてこの作品は「ポストヒューマン」を描くことに成功したのであろうか。電脳社会やら外骨格やらサイバーパンク的ガジェットに満ち溢れている物語世界で、リーザはdisembodimentすることが出来たのであろうか。これを主たるトピックとして読書会で考えていきたい。以下は、その助けとなると私が感じた作品の断片である。
【ゴミの芸術】
ルービンはゴミの芸術家である。これは意外と重要なことを教えてくれるような気がする。彼はゴミを使ってアートをするのだが、ゴミとは目的を失ったモノであり、既存のモノから目的を剥奪し「新しい目的」を授けたのが、ルービンのアートだ、ともいえなくもない(ヒックスの指摘による)。
(6) ルービンはある意味で、だれにもよくわからない意味で、達人であり、教師だった。日本人がセンセイと呼ぶものであった。なんの達人かといえば、ほかならぬゴミ、キップル、不要品、今世紀がその上に漂っている、廃棄物の海だ。ゴミのセンセイ。ジャンクの巨匠。(205)
(7) 「おれがどこで彼女を見つけたと思う。[. . .] いつものゴミあさりでグランヴィル島へ行ったときだ。路地を走っていると地べたに座っている女がいた。外骨格が見えたし、顔色も悪い。おい、大丈夫かと声をかけた。応答なし。ただ目をつぶっただけだ。くそ、おれの知ったことか。ところが4時間ぐらいして帰りにまたそこを通ると、まださっきのまま動いた様子がない。「おい、ねえちゃん」とおれは言った。「そのハードウェアがいかれてるのかもしれないぜ。なあ、みてやろうか」応答なし。「いつからそこにいるんだ」応答なし。てなわけで、おさらば。[.
. .]「わかるか、あの子は何かを頼むって事ができないたちだった。ただ受け取るだけだ。人の好意がやりきれなかったんだ」(217-19)
(8) 「お前の欠点がなんだか知ってるか。お前はいつもハンドブックを読むたちだ。人間の作るものはみな、どんな種類のテクノロジーでも、いずれはなにか特別な目的ができる。だれかがすでに理解した何かをすることになる。だが、もしそれが新しいテクノロジーだったら、だれもこれまで考えたこともないような領域がそこにひらかれる。だんなよ、おまえはマニュアルを読むだけで、そいつと遊び戯れたりしない。そこがちがう。それでさ、ほかのだれかがおまえの考えてみもみなかったやり方でそいつを使いこなすと、おまえはすっかり調子が狂う。ほかのだれか、たとえばリーゼが」(221)
(9) 「おまえは先が見えなかったんだ、ケイシー。それは側面思考が不得手だからだよ。ハンドブックを読むばっかり。いったい、あの子のねらいが何だと思ってた。セックスか。たくさんのウイッズか。世界一周ツアーか。そんなもの全てを、あの子は超えていた。だからあんなに強かったんだ。あの子は超えていた」(228)
【ドライ・ドリーム】
一方、リーゼが作り出したドライ・ドリームとはどのようなものであるのか。
(10) この業界、堅気の業界では――おれはまだポルノに手を出したことはない――未加工製品をドライ・ドリームと読んでいる。ドライ・ドリームは、たいていの人間が睡眠中にしか出入りできない意識層からの神経出力だ。しかし、おれが〈オートノミック・パイロット〉で付き合っている種類のアーティストは、その表面張力を破って、ユングの海の深い、深い底に潜り、そこからなんというか――そうつまり、夢を持って帰ることが出来る。早く言えばだ。昔から一部のアーティストは、どんな媒体にしろ、それをやってきたんだと思う。だが神経電子工学のおかげで、だれもがその経験にアクセスできるようになった。そしてネットがそれをすべて電気情報に変換し、おれたちがそれをパッケージして、売りに出し、市場でどんな風に動くかを観察できるようになった。ほら、いくら物事が変わっても…とかなんとか。(212-13)
当然、ナマの無意識体験と商品としてのドリームは質が異なる。リーザと「直結」したことのあるケイシーは、こう言うのだ。
(11) 彼女がアーティストだと主張している以上、そして、おれたちが前面闘争にはいったことがなんとなくわかっている以上、負けるわけには行かなかった。ここらは人から見ると筋が通らないだろうが、しょせんおたくは彼女を知らない。というか「眠りの王たち」を通じて知ってるだけだ。おたくは彼女のあの飢えを感じたことがない。(213)
無意識とは何であろうか。フロイトの言葉を借りるならば、本能とは別に幼児が生まれたときに本来持っている快楽原則にのっとって人間の身体を駆動させるリビドー的欲動(drive)が、去勢恐怖によるエディプスコンプレックスの克服を経ることで性器的な性欲へと統合されるときに、部分的に抑圧されたものが潜む場所である。無意識のありようを我々は夢を通じて垣間見ることが出来る、とフロイトは言った。無意識との「結合」とは何を意味しているのか。
【ケイシーの喪失感】
ケイシーはリーザの死に責任を感じており、強烈な喪失感を感じている。一方、肉体を失いプログラムとなったリーザがやがて自分に接触してくるだろう事に複雑な思いを抱いている。
(12) それは彼女が死んだから、そしておれが彼女を見殺しにしたからだ。いま、彼女が不滅の存在になり、そうなることにおれが手を貸したからだ。その朝、彼女が電話をしてくることを、おれが知っていたからだ。(204)
(13) 「あたしは眠らないわ、ケイシー」あとになって、それからずっとあとになって、やっとおれはリーゼが詫びを言ったことを思い出した。リーゼは二度とそうしなかったし、後にも先にも、らしくない言葉を彼女がいったのはそのときだけだった。(227)
(14) しかし、あそこでリーゼを見たとき、彼女があの酔っ払った若造の手を感覚のない手で握っているのを見たとき、おれは決定的に悟った。人間の動機には完全に純粋なものなんかはない。あのリーゼにさえ、スターダムと電脳不死性への狂おしい野心をもったリーゼにさえ、弱点はあった。それを認める自分が憎いが、やはり彼女も弱い人間だった。彼女はあの夜、自分自身に別れのキスをするためにでかけた。彼女のためにそうしてくれるほど泥酔しただれかをみつけるために。(237)
【サイボーグ】
リーザは「サイボーグ」なのであろうか。ヒックスの論文にはリーザをサイボーグと呼ぶくだりがある。
(15) Casey’s friend Rubin, a junk artist of Marcel Duchamp stamp, finds this cyborg dying in alley and in effect “salvages” her, bringing her home with the rest of the garbage he has collected. (77)
我々が普段サイボーグときいて連想するのは、例えば『サイボーグ009』のような、「肉体の一部を機械に置き換えたもの」であることが多い。『攻殻機動隊』の「義体」もサイボーグに含むことが出来るだろう(マイクロマシンによる「電脳化」は保留)。だとすると外骨格による肉体の補強はサイボーグとは考えられないのだが、この判断はすこし性急に過ぎるかもしれない。ここで、かの有名なダナ・ハラウェイ先生の「サイボーグ宣言」を紐解いてみることは、この問題を考える上で充分に効果的であると思える。
(16) サイボーグはポスト・ジェンダーワールドの産物である。サイボーグは両性愛とも前エディプス神話的共生とも疎外なき労働とも関係がない。ともあれ、そのように有機的統一を夢見て部分的可能性の一切合財を見栄えよく纏め上げようとする試み全てに対し、サイボーグは関係を持たない。(35)
(17) たとえば労働者階級の生活は工場と家庭に分かれ、中産階級の生活は市場と家庭に分かれ、性差に根ざす生活は個人敵領域と政治敵領域に分かれているというイメージがある。この要領で、もし女性の生活をも公的私的のイメージに分けることがイデオロギー的に可能であると見るなら、いまやそれはまったくミスリーディングなイデオロギーであって、これら二項が理論的にも実践的にも相互に構築し合っているのを示す役にも立たない。むしろ私が好むのは、ネットワーク状のイデオロギー概念だ。それは空間とアイデンティティが豊潤をきわめて、個人の肉体と政治的肉体における境界線さえ侵犯されてしまったことを示唆する。ネットワーク編成はフェミニスト的行為であると同時に、多国籍企業特有の戦略である。(85-86)
(18)
【参考文献】
Hichs, Heather J. "'Whatever It Is That She's Since Become': Writing Bodies
of Text and Bodies of Women in James Tiptree, Jr's 'The Girl Who Was Plugged
In' and William Gibson 'The Winter Market'." Contemporary Literature 37.1.
中村融編『20世紀SF 5 ―冬のマーケット―』東京:河出書房、2001年。
ウィリアム・ギブソン「冬のマーケット」浅倉久志訳『クローム襲撃』東京:早川書房、1987年。
ダナ・ハラウェイ「サイボーグ宣言」巽孝之編『サイボーグ・フェミニズム[増補版]』東京:水声社、2001年。