DATA

開催日:2004/2/12
レポーター:海老原
課題:フィリップ・K・ディック『暗闇のスキャナー』(創元SF文庫)

RESUME

BE HAPPY NOW, BECAUSE
TOMMOROW YOU ARE DYING.


[MENU]
0.Introduction
1.Summary
2.Identity/Name
3.Bio-Pouvoir
4.Happy OTAKU?
5.An Autobiographic Novel
6.Discussion

[0: Introduction]
フィリップ・K・ディックの前期と後期をつなぐ自伝的反(?)ドラッグ小説『暗闇のスキャナー』(創元SF文庫)をテクストとして、いかに現代社会において「幸せに生きる」ことが困難であるのか、そして言われなく生-権力によって剥奪されてしまった(幸せな?)個人の「生」をどうすれば奪還することができるのか(不可能なのか?)という問いを考えていきたい。

[1: Summary]
1994年カリフォルニア、覆面麻薬捜査官ボブ・アークターは物質Dという強烈なドラッグの供給ルートを探るために麻薬常習者のグループに自らもジャンキーの一人として潜入していた。パーティーのメンツはジェリー・フェイビン(アリマキに襲われる妄想にとりつかれて入院)、チャールズ・フレック(後に自殺)、アニー・ラックマン、ジム・バリス(発明大好き野郎)、ドナ・ホーソーン(黒髪の美女)。アークターにはジャンキーとしての顔と、スクランブル・スーツによってプライバシーを保護された覆面捜査官フレッドとしての顔の二つをもち、それを上手く使い分けて調査を進めていた。ところが、上司のハンクはある日アークター/フレッドに、「ボブ・アークターという男を監視しろ」という命令を下す。戸惑いながらもホロ・スキャナーで監視を始めるフレッド。潜入捜査をしているうちに自分も物資Dの中毒になり、脳梁が破壊され、頭のなかにフレッドとアークターという二つの人格を持つようになったアークター=フレッドは、やがて自分がアークターであることを忘れてフレッドとして振舞い始める。クライシスが決定的となったときに、初めて明かされるハンクの真意。それは「ヤバイことに絡んでいる」ジム・バリスを釣り上げるために、アークター=フレッドが潜入捜査を命じたのだ。激しい発作を起こしたアークターはドナによってニュー・パスという麻薬常習者の厚生施設へとブチ込まれる。ドナは善意からそうしたのではなく、ドナもFBIの麻薬捜査官であり、有機系のドラッグである物質Dの出所と疑われるニュー・パスを調べるためにアークターを利用したのであった。ニュー・パスで完全に人間としては壊れてしまったジャンキーを「厚生」という名のもとに農場で労働させ、物質Dを生産しているらしく、アークターのちかちかとかすかに明滅するふたつきりの脳細胞が、捜査官としての記憶によって反射的に真実へとたどり着くことができるのではないかと、それはわずかな可能性に賭けるあまりにも非人間的な捜査だった。物語の最後に、ブルース(アークター=フレッド)は「モルス・オントロギガ」という物質Dの材料となる青い花を手にするが、真実へといたることが出来たのかどうかは不明のまま物語は閉じる。

[2: Identity/Name]
主人公ボブ・アークターは最終的に3つの人格=アイデンティティを得ることになる。
最初はジャンキーとしての人格:ボブ・アークター、覆面麻薬捜査官としての人格:フレッド、の2つであったが、物質Dの作用によって著しく脳みそが破壊されてしまった後はブルースという第3の人格が表れる。
まずアークター/フレッドの関係について考えるが、この境界線はかなりゆるい。それはスクランブル・スーツという技術的な支えがあるためでもある(p44とか)。またジャンキー/カタギという相反する社会的地位を与えられているが、ジャンキーに対して同情的であり、「カタギは敵」と(とりあえず最初のほうでは)考えている(p36、p136とか)。ディック自身がかつてジャンキーであったことを考えれば、同情的になるのも頷ける。この関係は監視されるもの/監視するものという構造に支配されてもいる。興味深いことに監視している最終的な主体は明らかにされず(没個人化)、非人称の「それ」がふさわしい、とフレッドに言われている(p266)。監視のネットワークは偏在化していて、ショッピングモールへ入るのにもIDカードが必要、コンビニの前で私服警官が立ち読みを装いながら見張っている、ラジオの周波数に紛れ込んでいる警察同士のメッセージ、電話の盗聴、スキャナーの取りつけなどがそれを物語っている。
アイデンティティを考えるときに、名前を与える/名前を奪う、という行為を忘れてはならない。ブルースはアークター=フレッドという名前を奪われた後に、新しく与えられた名前であり、しかしそれは本当の名前ではない。ニュー・パスの施設で出会った少女の問いかけ「ねえってば、名前は?」にブルースは答えていない(p363-64)。ブルースの本当の名前はなんなのか? どうして本当の名前は失われてしまったのか? それを取り戻すにはどうすればよいのか? 名前を奪ったもの、それこそがフーコーの生権力なのではないだろうか。

[3: Bio-Pouvoir]
ミシェル・フーコーは『知への意志』第五章「死に対する権利と生に対する権力」の冒頭部分(p171-183)で生権力という概念が近代社会を考える上で重要であるとしている。古典主義時代の王が臣民に対して持つ権力が「死なせるか/生きるままにしておくか」というものであったのに対して、近代社会の権力はその国民に対して「生きさせるか/死の中へ廃棄するか」という形であるとフーコーは言う。そしてこの近代社会の権力は規律・訓練を国民へと埋め込んでいく「人間の身体の解剖-政治学」と、人口などの統計学的調整による生命の管理という「人口の生-政治学」の二つの要素をもつ生権力と名づけた。表に表すと次のようになる。
権力の発動[ON/OFF]
王の権力 [死なせるか/生きるままにしておくか]
生権力 [生きさせるか/死の中へ廃棄するか]
さて、この生権力だが、資本主義の勃興と大変密接な関係にあり、なぜなら「資本主義に必要だったのは、力と適応能力と一般に生を増大させつつも、しかもそれらの隷属化をより困難にせずにすむような、そういう権力の方法であった」からだ、とフーコーは言う。我々は生きているのではない、生かされているのである。権力は生を抑圧し死をもたらすものなどではない、人々の中に入り込み生を生み出すものなのである。この生権力の圏内において、どのような人間が「廃棄」の対象となるのか、それは「犯罪の大きさ」ではなく「犯人の異常さ」「強制不可能」性、社会全体への脅威、という判断によって決められる。ドラッグの乱用が犯罪であるのは、それが常習性のある危険な薬物であるから、ではなくて、生権力からの脱走にほかならない。アークターやバリス、フレック、フェイビン、ラックマンのようなジャンキーたちがドラッグを消費しつづける姿は、緩慢な自殺ともとれる。「生に対して行使される権力の境界にあって、その間隙にあって、死ぬことに対する個人的で私的な権利を出現させ」たのが、近代的な自殺であるならば、アークター達は「死にながら生きる」というきわめてラディカルなライフスタイルと貫くことで生権力への強力なアンチテーゼを示した、といえるのではないだろうか。 しかし、そこは権力、甘く見てはならない。「もはや主権の場で死を作動させることが問題なのではなくて、生きているものを価値と有用性の領域に配分することは問題となる」「規準となる常態(ノルム)の周りに分配する作業をする」とあるように、生権力は抜け目無く、アークターをフレッドと名づけた後、有用性の名のもとに覆面麻薬捜査官として空間的に配分(=配置)する。結局、アークター=フレッドが二重のアイデンティティを持ち、監視されるもの/監視するものという権力の主体客体という分裂に直面しなければならなかったのは、生権力の空間内においてジャンキーとしての「生(つまりは死)」を全うしようとしたからではないのか。そしてその試みは最後まで成功せず、むしろ徹底的に略奪され(仕事、友人、記憶そして名前まで)、搾取される(ニュー・パスに入れられたのもFBIの計画の一部)。
権力は何も国家という判りやすいシステムが持っているとは限らない。なによりも資本主義社会なのである。高度に発達した資本主義のシステムにおいては(設定では1994年)、システムそのものが没個人的な生権力を発動させることも十分に考えられる。だからブルースはニュー・パスの後ろに隠された組織によって二重の搾取を受けるのだ。
文学(≒エクリチュール=書くこと)とは時に政治的である。それは政治的な解決で救うことが出来ないものを文学ならば回復してやることができる、という可能性をもっている、とも言い換えられるだろう。政治的解決とは時に新たな問題を生み、見えなくし、構造を維持しつつ形を変える。だがそこに文学ならば、と私は思う。ディックの『暗闇のスキャナー』がSFの枠を越えて、文学(的)であるとすら思えるのは、この点に拠っているのではないだろうか。つまり生権力への自殺的な反抗によって収奪され尽くし「名前」まで消された存在を忘れないでいる(アイデンティティの回復)ということによって。だから、ディックの著者あとがきにあるディックのジャンキー仲間の長いリストと、「これがおれの同志たちだった。それも最高の。みんなおれの心のなかに生き続けている」は、ディック個人の思いを超えている。

[4: Happy OTAKU?]
ここでは話を180度ほど回転させたいと思う(しかし軸はディックと関係している)。何処へ行くのか? オタクへ、である。東浩紀のタームである「動物化」を使えば、ディック、ドラッグ、オタク・カルチャーは(実は)すべて一直線に貫くことができる。例えば氏のウェブサイトにも掲載されている「萌える世界、さまよう作家性」というインタビューには、次のような発言を拾うことができる。
――萌え要素の消費は、むしろ薬物の消費に近いんじゃないかなあ。今日はオレ鬱だから、ちょっと『Kanon』やっとくか、みたいな(笑)。
――ポストモダンとは、人間の動物化が進行する時代でもある。ドラッグカルチャーは60、70年代に始まりましたが、そこで広まったのは、結局「我々は動物なんだ」という認識です。僕らはどうせ動物なんだから、心理的問題は薬物で解決できるだろう、という人間観。同じ価値観がオタク系文化のなかにも、また違ったかたちで流れている。自分が何者か、なんてこといっさい抜きで、動物的欲求にばんばん答えてくれるものばかりを作っている。
――だからまあ、いちどオタクになっちゃったやつを立ち直らせるのが難しいのは、彼らはジャンキーだからですよ。声優の声が好きといったって、趣味というより中毒みたいな感じでしょう。そう考えると、アニメグッズって、下敷きに白い粉をつけて売ってるみたいなもんなんです(笑)。
『動物化するポストモダン』でオタク・カルチャーの消費形態を分析するに当たって、萌え要素に解体しうえでの「データベース消費」を提唱した。またヘーゲル哲学の研究者であるアレクサンドル・コジューブの「アメリカ的動物へ回帰」と「日本的スノビズム」を紹介し、さらにスラヴォイ・ジジェクの「シニシズム」を接続し、大きな物語が崩壊したポストモダン社会においてオタクたちはサブカルチャーを用いてその隙間を埋めようと試みているのだ、と言う。日本的スノビズムとは「与えられた環境を否定する実質的理由がないにも関わらず、『形式化された価値に基づいて』それを否定する行動様式」、シニシズムとは本当は嘘であることを知りつつもだからこそそれを信じることを止められないような姿勢のことである。現代日本はスノビズムの時代精神は終わりを告げ、代わりに表れたのが「データベース消費」であり、その変化を「動物化」としている。この「動物」とは先述のコジューブの定義に習っていて、欲望ではなく欲求が閉じた回路で自足する非間主体的な構造といえる。この動物的欲求-充足の回路が極めてドラッグ中毒に近い、と東は『動物化するポストモダン』でも述べている。
実は、私は「オタクに生きる」(オタクとしての生)とは実は壮大な冗談ではないか、とこの間から感じている。この場合のオタクとは萌えをラディカルなまでに消費している現代的オタク=オタが念頭にあるのだが、「〜たん萌え」から始まってエロゲーやってコミケ行ってコスプレして内容なんて無いに等しいそして様式すらもうゴミのような一連の作品群(アニメ、漫画、ゲーム…)を消費している人たちは、本気でやってるのか? と。それが「データベース消費」できわめてポストモダニズム社会の消費体系と親和性の高いものであろうと、戦闘美少女(ファリック・ガール)を「愛する」ことである種のセクシュアリティに生きることができようと、まるで「醒めない悪夢」を見ているようではないか? と(これは私の日記にも書いた違和感である)。東の議論を踏まえるならば、私はまだおそらくどこかで大きな物語への希求があり、したがってスノビズムというものを認めていて、オタクの行動様式はそれ自体が壮大な冗談=日本的スノビズムである、という図式を信じたいからなのであろう。困ったことに「文学性」なるものを主張すること自体、きわめてモダニズム的な思考であり、『暗闇のスキャナー』をオタクの文脈で捉えなおそうとすると先ほどの私の「読み」は自己矛盾を孕むことになる。 ディックの描くジャンキーがする「ヨタ話」(これが『暗闇のスキャナー』の魅力の一つでもある)は、実はオタクがする「ヲタ話」とかなり近しいものなのではないだろうか(いや、発音的な問題だけではなくて)。ジャンキー=オタク、と考えられないだろうか(そのために東浩紀の論を長々と引いてきたのだが)? だとしたら我々(?)オタクの生(性=セクシュアリテではない)は実は「辛い」ものなのではないだろうか(とういか私は疲れた)? あるいはオタクと対称関係にあるそれぞれのグループ(ヒキコモリ系でも自分探し系でもフリーターでもコギャルでもリスカ少女でも)が抱える「現代的生きにくさ」というものはどこかしらディックのジャンキー達と共通するものがあるのではないだろうか? “BE HAPPY NOW”はかなり難しいのではないか。

[5: An Autobiographic Novel]
『暗闇のスキャナー』はディックの自伝的小説と先に書いた。では、どの辺が自伝的なのか、『ユリイカ』掲載のディックの伝記を参照したい。ディックは双子の妹を無くし、5度結婚し、自分の小説のアイデアが国家機密と一致しているためFBIとCIAに狙われていると怯え、ラジオからは自分を中傷する声が聞こえるといい、外出を嫌い(広場恐怖症でもあった)、鬱病を持ち、ドラッグ中毒になり、薬物依存者厚生施設に入所し、出会う女性に片っ端から恋をして求婚しては振られ(実ることもあるが)、主流文学で成功したいと思いつつかなわず、占い(易経)で長編小説『高い城の男』を書き、貧乏で、母親にコンプレックスを持ち、学校は不登校気味で、自分の経歴に嘘をつき(あるいは記憶の捏造?)…と波乱万丈を超えてもう人生自体が「ディック的」としか形容できないようなものであった。その中で『暗闇のスキャナー』に影響を与えたと思われるものだけを書き出すことにする。
70年9月4番目の妻であるナンシーが娘を連れて家を出る。この時期にキャシー・デュミエルという黒い眼と黒い髪の娘がディックの前に登場する。ディックの小説のヒロインには黒髪黒い眼の女性が多いが、それはディックの嗜好とこのキャシーの影響であろう。キャシーは『暗闇のスキャナー』のドナ、『ヴァリス』のグロリア、『ティモシー・アーチャーの転生』のエンジェルのモデルであるとされる。キャシーが語るところによればディックの片思いだったらしい(「恋人ではなく友達だった」)。ナンシーと別れたディックは親戚あるいは知り合いの男を家に呼び共同生活を始める。夜遅くまでアンフェタミン(覚せい剤)を服用しラリパッパとなる。やがてディックの家はドラッグの密売人、10代20代の若者が集まる溜まり場となり「隠者の家(ハーミット・ハウス)」と呼ばれるようになる(ある時期の中島らもの家「ヘル・ハウス」とそっくりである)。ディックはほとんど外出せず、1000錠100ドルのアンフェタミンを流し込む毎日だった。
1971年11月に「何者」かがディックの家に侵入、耐火ファイルケースの中身が盗まれる。この事件の真相は不明のままで、さまざまな憶測を呼んだ。ディックがラリパッパ状態の時に自分でやったのではないか、という説まである。この事件の前に、ドアノブが破壊されていたり、車のブレーキがきかなかったりする「不審」な出来事が続き、ディックは近いうちに何かが起こると予期していたようである。
1972年にカナダ、バンクーバーで開催されるSF大会へ行く。その間に「隠者の家」が差し押さえられ帰る場所を失ったディックは、しばらくカナダに滞在する。3月23日、バンクーバーのアパートで服毒自殺を図るが、最後の瞬間に気が変り自殺予防センターへ連絡、一命を取り留め、そのまま薬物中毒患者のための寄宿制リハビリ施設「Xカーレイ」へ入所。トイレ掃除や子供の世話、施設のPR文を書く仕事をこなす。この施設で行われていた、患者同士が相手に悪口雑言を浴びせ掛ける治療法に耐えられなくなり3週間で退院する。
1973年4月、テッサと結婚(5度目)。執筆を再開し、『暗闇のスキャナー』の第一稿をあげる(書きながら泣く)。75年金がなくなりロバート・A・ハインラインから借金をし、その返済のために『暗闇のスキャナー』を仕上げ、出版する。

[6: Discussion]
次の点を念頭におきながら読書会を進めていきたい。
・各人の全体的な感想
・私の読みへのリアクション
・気に入ったシーン(これは枚挙に暇がない)
ちなみに私の気に入ったシーンはジェリー・フェイビンのアリマキ(チャプター1全部)、ジム・バリスの実験シリーズ、自転車7段ギアの話(そしてそれに続く「春の花」)、猿の惑星全11シリーズ(p209)、なんとかまたたく脳細胞、ニュー・パスでの生活、といったところ。

BIBLIOGRAPHY
フィリップ・K・ディック『暗闇のスキャナー』東京:創元社、1991年。
ミシェル・フーコー『性の歴史1 知への意志』東京:新潮社、1986年。
東浩紀『動物化するポストモダン』東京:講談社、2001年。
東浩紀「萌える世界、さまよう作家性」
星倉憂愁「The Anomaly Exhibition」『ユリイカ 特集 P・K・ディックの世界』所収

COMMENTS

自転車のギアの話はやはり人気が高かった。ジム・バリスの狂いっぷりとかもかなり共感を得られたみたいである。
オタク論への接続は予想以上に理解というか賛成してもらった。しかし人間/動物を欲望/欲求という二分法で考えることへの違和感は各々強くもっているようでもある。ドラッグは生活のすべてになりえるが、「萌え」の消費は所詮趣味的領域から出ることはめったに無い(あるにはあるが、本当に特殊)という指摘ももっともかと。ドラッグが萌えとは違って危険なのは、肉体的に不可逆的な損傷を負わせうるからである。萌えはいくら頑張っても精神的外傷は負おうとも肉体的な痛みまではまず発展しないだろう(するか? するならばその例が見てみたい)。 このテーマでのオタク論への接近は個人的課題として今後もいろいろ考えていきたい。


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