開催日:2003/11/28
レポーター:斎藤
課題:イタロ・カルビーノ「柔らかい月」
CRITICISM
論理の果ての幻想
(あらすじ)なんだかよくわからない存在であるQfwqf氏が語る、月が地球に降ってきた時のこと、鳥を始めて見たときのこと、融けていた大地から結晶が生まれたときのこと、われわれの体内にある海のこと。
イタロ・カルヴィーノは一九二三年キューバ生れ。父は農学者、母は植物学者。二歳の時両親とともにイタリアへ戻る。トリノ大学農学部に入学。一九四三年、パルチザンに参加。戦後、『くもの巣の小道』でデビュー。ネオ・レアリズモの担い手として注目されるが、『まっぷたつの子爵』『木のぼり男爵』『不在の騎士』(われらの祖先三部作)で寓話的な幻想小説へ向かう。同時期には『イタリア民話集』を編纂。その後、『レ・コスミコミケ』『見えない都市』『冬の夜ひとりの旅人が』など、実験的な作品を数多く発表する。一九八五年没。(<http://www.asahi-net.or.jp/~jr4y-situ/refer/italo.html>より引用)
カルヴィーノの小説は一読すると幻想的である。しかし、なんだかよくわからないなと思ってもう一度読むと、うっすらと「論理(ここでは科学も含む)」が見えてくる。さらにもう一度読むと、「論理」が次第に明確になってくる。さらにさらに読み込むと、論理がはっきりと見えて――はこないで、難解な論理が理解できないで自分の頭の悪さを呪うことになる。だからカルヴィーノを読むのは三回までにしましょう。というのは冗談にしても、カルヴィーノは幻想的である、というのは一面的な理解であって、カルヴィーノの奥まで踏み込んだ評ではない。
カルヴィーノの文章の特徴の一つに、描写が偏執狂的に細かいということがある。それはこの文庫本の第二部「プリシッラ」や第三部「ティ・ゼロ」を読めば一目瞭然。細胞分裂の話が哲学的というか形而上学的というかとにかく無茶苦茶しつこく、そしておそらく概念と描写の正確さにひたすらこだわって書かれたり、ライオンに矢を撃った瞬間、空間と時間についての哲学的考察が延々と続いたりする。残念ながら私は全然理解不能であった。『むずかしい愛』(岩波文庫)の中の「ある兵士の冒険」なんてのは電車で隣に座った婦人になんとか触ろうとする(よーするに痴漢だ)兵士の心境と動作を事細かに書いただけの話である。『パロマー』(岩波文庫)って本ではパロマー氏の日常をこれまた偏執狂的に哲学的に描写、考察した本である。日光浴をしているトップレスの姉ちゃんはどう見る、あるいは見ないべきであろうかなんてことを延々と考えたりする。とにかく、カルヴィーノという人はなんでもかんでもじっと見て、そのことについてずっと考えてしまうようである。
じっと見つめて、ずっと考える、というのは難しく言うと、論理を果てまで追い詰めるということである。格章の冒頭の「科学的な」文、それをカルヴィーノは考え続ける。月が降ってくるとはどういうことか、鳥とは何か、結晶とはどのように美しいのか、我々の体内の海はどのように存在しているのか。必死に美的論理で追い詰めていく。そうするとこの作品のような文章に帰結する。おそらくカルヴィーノはこうやって文章をかいているのだ。
論理の果ての幻想という点では、『マルコ・ポーロの見えない都市』という作品がわかりやすい。この本では「都市と記憶」「都市と記号」「都市と名前」「都市と交易」といった題名がつけられた小品がたくさん並べられているのだが、そこから見えるのは「都市と記憶」といった題名に沿った幻想的な都市の数々なのである。いわゆる幻想小説とは違う、「記憶」「記号」「名前」とは何かという論理的な考察を具体化したものとしての都市の数々を見るのである。
しかし、カルヴィーノの小説を理解するのは難しいとはいっても、この「Qfwqf氏の話」は理屈抜きで楽しめる作品である。幻想性に酔い、できればさらにその奥の論理に触れることができれば、これ以上面白い小説はないと言えよう。