DATA

開催日:2003/10/3
レポーター:えびこ
課題:ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア「ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?」

CRITICISM

ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア、「ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?」考
――「男達の知らない女」しかしいない世界に紛れ込んだ男達

フェミニスト・ユートピア小説、という系譜がある。女性だけのアマゾネス社会、そこには男はいない、男が原因と考えられる差別、暴力、争い、そのような人類文明の悪と考えられるようなものすらない。この系譜にピタリと当てはまるティプトリーの中篇作品がある。それが「ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか」である(早川文庫『老いたる霊長類の星への賛歌』収録)。内容を簡単に説明しよう。
西暦2000年前後に行われた人類初の太陽周回飛行。その宇宙船〈サンバード〉には科学者オーレン・ロリマー、ノーマン・デイヴィス少佐、バド・ガイアー大尉の三人が乗っていた。しかし宇宙船は太陽に近づいたときにフレアに飲み込まれ、300年後の世界へとワープしてしまう。それを知らない乗組員達はでたらめな方向へと船を進ませていた。ヒューストンに連絡をとろうとしても上手くいかない中、偶然他の通信が混信してくる。それは2300年代の人類が発した電波であった。最初は双方とも相手の存在を疑ってかかっていたが、やがて未来人は歴史の中から太陽周辺で〈サンバード〉が息不明になった事件をみつけ、事の真相をロリマー達に告げる。そのままでは地球へ帰ることのできない軌道にあった〈サンバード〉は、宇宙船を破棄したまたま近くを通っていた未来の人類の宇宙船〈グロリア〉に回収してもらう。〈グロリア〉は進路を地球へ向け、到着までの一年間ロリマー達は未来の人類と共に生活をする。驚くべきことに未来人の宇宙飛行士には「女」しかいないのである。アンディと呼ばれる「男」もいたが、彼は「少年」にしか見えなかった。ロリマーは共同生活を続けていくうちに人類に起こった恐るべき変化を知ることになる。人類は細菌兵器によって性染色体を破壊され男は死滅し、生き残った女も生殖能力を失ってしまった。人口は二百万まで激減し、一万一千ほど残った遺伝子の型をクローンで増やし個体数を維持しているのであった。女達はゆるやかな原始共同体を作り支配、階級、搾取などそれまでの〈旧世界〉では当たり前であったような社会構造を新しく組替えていく。文学や恋愛ですら女達の世界では無意味であり気持ちの悪いものであった。バドはひとりの女に手を出そうとし、ロリマーはそれをとめるために真相を告げる。ガドはそれを聞いてパニックになり女達に取り押さえられる。冷静で信仰心の篤いデイヴィスも、「女を導くために男は存在する」と自分達が女達を支配する正当性を半ば狂いながら説きはじめるが、これも取り押さえられてしまう。徹底的に傍観者だったロリマーは最後になって「男が社会を作ってきたはずだ」と言うが、「戦いの中心にいたのは常に男達だった」と言い返され言葉を失ってしまう。
と、男なら読んだ後へこむであろう小説である。ここではこの小説をフェミニスト・ユートピアSFの系譜に位置付けつつフェミニズム批評を批判的に検証し、発表後30年を経るに至った今日ではこの作品が提示した問題点をどのように受け止めるべきかを考えていきたい。
まず具体的にテクストに即して各登場人物の分析をしてみる。もっとも単純にその性格をとらえることが出来るのはおそらくバドであろう。例えば、バドは次のようなセリフを吐く。

「二百万のおまんこか」とバドは繰り返す。「誰ものこっちゃいない、あるのはあなぼこだけ。したいことができるぞ、いつでも、どこでも、もうじたばたすることはないや」(中略)「何マイルも先まで群がって、いただきにくるぜ。まわりのやつらを押しのけてよう。みんなおれが目当てなんだ。バディ王様・・・朝飯はストロベリーとおまんこさ。それからあついバターをしみこませたぱいぱいね。そばに二人ばかりかわいまんちゃんをはべらせてよ、一日中おれのちんぽこのホイップクリームを舐めさせるのよ・・・よーしコンテストをやってやらあ! バディ様のお相手が出来るのは、これからは飛び切りのやつだけだ。(中略)王様だ。神になってやるぞ。中略。そのうちオレの銅像が建つだろうな、高さ一マイルもあるちんぽこがそこらじゅうに」

これは未来の地球では男性が滅び女性しかいなくなったということを知った後、錯乱気味のバドが言うものであるが、これ以上特に付け加えることがないぐらいに典型的な男性性欲――つまりは女性は抱くための存在であり男に仕えるのが当然――に溢れている。まるで安物のAVの一場面のようなシーンでもある(高級なAVは今だかつて目にしたことがないが・・・)。
一方、同じようなシチュエーションでもデイヴィスはバドとは思考方法が異なっている。

「彼女達は迷える子なんだ。自分達をおつくりになった主を忘れてしまったのだ。この何百年かを闇のなかですごしてきたんだ」
「りっぱにやってきているようだがね」ロリマーは自分の声を聞く。どこか間のぬけたセリフ。
「女はものを運営する能力がない。それはわかるはずだ、ロリマー。連中が何をやってきたか見るがいい、哀れを誘うじゃないか。時間つぶしをする、それだけだ。かわいそうに」デイブは深刻にため息をつく。「連中が悪いんじゃない。それはわかるさ。三百年、何の導きも与えられなかったのだ。首をはねられた鶏と同じだ」

バドが男性的「性欲」であったのならば、デイヴィスは男性的「父性欲」あるいはパターナルな欲望とでも言うべきものに突き動かされているのがよく判る。ここで興味深いのは、ロリマーは何度となくデイヴィスに自分の父親像を見ているという点である。ロリマーから見てもデイヴィスは十分立派に「父親的」なのである。デイヴィスの女性を導きたいというこの欲望は、すぐに判る通り支配欲と裏表の関係である。つまり男性が持つとされるあるいは男性に典型的なものと考えられる欲望が二種類の別の形を持って表出したのがバドとデイヴィスである、と言えるだろう。バドとデイヴィスは根の部分は共有しているのである。
それならばロリマーはどうなのか。バド、デイヴィスが女達に取り押さえられた後、次のようにロリマーは独白する。

ロリマーは今、自分が何を恐れていたかを思い知る。デイブたちの弱さではない、自分の弱さだったのだ。

物語の終盤までロリマーは冷静な傍観者でいる。ロリマーは物語の語り手を務めているようでその語りの中では「彼」として言い表される。しかも一種の狂言回し的な役割をもっていて、女性達との会話から地球の様子がどんなものかを推理するのもロリマーなのである。ロリマーは傍観者であると同時に、他の二人に比べて「女々しい男」として描かれてもいることには容易に気がつく。物語の冒頭、ロリマーによって語られるエピソードは、ロリマー自身のトラウマティックな体験である。それは子供の頃、間違えて女子トイレに入ってしまったロリマーが回りの女子にからかわれるというもの。また自分の身長の低さに対するコンプレックスやバドの荒々しさにどこか「力」を感じてしまうこと、先も指摘したがデイヴィスに良き父親像を重ねてしまうあたりにもそれは伺えるだろう。逆に考えるとロリマーの男性的な欲望をバド、デイヴィスが肩代わりしているとも取れなくもない。しかしバド、デイヴィスがとらえられたので、ロリマーはついに自分の内なる男性性に直面しなければならなくなる。それが先の引用シーンによく表れていると思える。自分の内なる弱さ=女々しさを認識したロリマーは他の二人は持っていて自分には欠けているマスキュリニティを獲得するために、女達に打って出ようとする。

「みんないい男だったんだ」ロリマーは悲痛な声で言う。いま、彼は全ての男達に代わって話している。デイブの父性像のために、バドの男らしさのために、彼自身のために、クロマニヨン人のために、そして多分恐竜たちのためにも。「ぼくは男だ。そうだ、怒っている。僕には権利がある。きみたちにこの全てを与えたのは、ぼくらなんだ。ぼくらが作り出したんだ。かけがえのない君らの文明を建設し、知識と慰めと薬と、そして夢を与えた。何もかもを。きみらを保護し、家族に少しでも楽をさせようと骨身を削ってきた。辛い仕事だ。戦いだ、どこまでも続く血まみれの戦いだったのだ。ぼくらはタフさ。そうでなければならなかったんだ。わからないか? それをわかろうとする気はないのか?」

この問いかけに対する女性クルーの答えは次のようなものであった。

「努力はしているわ」レディ・ブルーはため息をつく。「努力はしているのよ。ロリマー博士。みなさんの発明はすばらしいと思うし、進化の中でみなさんがはたしてきた役割は認めるわ。でも一つ問題があると思うの。これはわたしの考え方なんだけど、あなたたちが女や子供を保護したというとき、敵となった相手は、おもに他の男性だったんじゃないの? いま私達は、その典型的な例を見せられたわけ。あなたたちは歴史を蘇らせたのよ」

ここでロリマーは他の二人の仲間を批判的にではなく盲目的に反復し継承している。ロリマーの中での男性性獲得方法というのは所詮模倣によるものでしかなったのである(ジラールの欲望の弁証法?)。従って物語りの最後の最後に表れたロリマーの男性性はやはりバドやデイヴィスとはたいした違いはなく、他の二人同様に女達にあっさりと流されてしまう。ここまでが各キャラクター分析である。
次にSF史的コンテクストでこの作品がどのように受容されたか、ということを検証してみたい。この作品の発表年は76年。それより少し前にアーシュラ・K・ルグィンやジョアンナ・ラスの作品を始めとする女性SF作家によるフェミニズムSFが60年代末から70年代にかけて発表され始めた。これは60年代ぐらいから巻き起こったウィメンズ・リブやフェミニズム運動との関連も十分にあるだろう(『老いたる』の巻末で鳥居定夫氏も指摘している通り)。それまでのSFにおいては女性作家は数が少なく(厳密に見ていくとそうとも言えないらしいが、一般的にそう捉えられているのでここでもそれに従う)、SFの中で描かれる女性もステロタイプでしかなかった。つまり女性は守るべき家族の一員か、性的ファンタシーの対象であるかそのどちらかとしてしか表象され得なかったのである。例えばSF七不思議のうちの一つに間違いなく入ると思われる現象に、タコ型宇宙人が地球人の白人美女、しかもなぜか水着っぽいの着用、を誘拐しそのウネウネの触手で攻め立てるという構図が長く必要とされてきたことがある。主としてパルプマガジンの表紙やスペース・オペラのペーパーバックの表紙などにおいてである。少し考えれば判るのだが、なぜ姿も形も全く違うようなタコ型(もちろんシーフード系!)宇宙人が地球の女性、しかも白人女性、しかも水着っぽいの着用に、ここまで執着しなければならないのか。これらはSFにおける不合理で偏った女性表象の典型といえるだろう。ところが60年代に台頭してきた女性SF作家達はこの表象を根本からひっくり返すような作品を続けざまに発表し、フェミニズムSFとして新しい場所を切り開いたのである。この女性作家に混じって、フェミニズムの文脈で評価された男性作家がいた。それがティプトリーである。ティプトリーは73年に「男達の知らない女」という短編を発表し、フェミニストSF作家として評価されていた。この短編のあらすじをすごく簡単にまとめると、男二人と女二人(親子)が乗った飛行機が墜落し行き着いた無人の入り江で救出をまっていたら、語り手であるドンという男が女二人に性的なファンタシーを膨らませる。それにうっとうしくなった女がその辺をうろうろしていたエイリアンに「わたしたちを連れて行って。遠いところへ一緒に行きたいの」と言いUFOに乗ってどこかへ行ってしまう、という話です。ウザイ男(もちろん男性を象徴とする家父長制社会のことでもある)よりも見ず知らずというか人間ですらないエイリアンに宇宙へ連れて行ってもらうほうがマシだと判断する女達。彼女達は「それまでの」男達が知らない女、だと言えるだろう(余談だが、小谷真理氏のエッセイを読んでいたら、エイリアン=異星人=異性人でもある、という指摘がありうなずくことしきりであった)。
ジュスティン・ラーバルステア著『SFにおけるセックスの戦い』(未邦訳)という、SFという言説空間において女性作家、女性ファン、女性キャラクターがどのような意味を持ちどんな活躍をしてきたのかを詳細にまとめた研究本の中では、この作品について次のように述べられている。

SFにおいて女性達はロマンスかドメスティックという言説でしか表象できないという考え方に迫っていると「男達の知らない女」は読むことが出来る。この物語において、語り手であるドン・フェントンは女性達をセクシュアルなものとしてみているのである。

SFの中で描かれていた女性がいかに偏ったものであったかを男性の語り手の視点から暴き出したこの「男達の知らない女」を、当時男性であると信じられていたティプトリーが書いたのであるから、SF界は衝撃を受けた。「ついにフェミニスト男性作家が生まれた」とか「女にこびてる」とか。大変皮肉な、しかしティプトリーのペンネームがもつ完璧なまでの虚構性を象徴的に示す事件があった。ティプトリーは女性SF作家のシンポジウムに参加しようとしたが、男性であるという理由で断られるというものである。ティプトリーは顔こそ見せなかったものの、手紙を頻繁にやり取りし積極的にSFファンダム活動へ参加していた。ティプトリーは刺激的なSFを書くSF作家であると同時に根っからのSFファンでもあったのである。そこでもう一つラクーナ・シェルドンという女性ペンネームを考えラクーナ名義でSFを発表した(女性SF作家としてファンダム活動をしたかったとも考えられる)。ちなみにラクーナ経由でティプトリーが男性であるということが判明するのである。ここまでの説明が60年代から70年代にかけての女性SF史概観であった。この時期を一言で言うのであれば「男達の知らない女」の発見、となるだろう。
これにフェミニズム批評をからめ更に論を深めていきたい。どのようにフェミニズ批評を絡めるのか。「ヒューストン」は冒頭にも述べたようにある種のユートピア小説ともとれる。男性が物理的にいなくなり、それまであった男性的支配構造が崩れ、階級、戦争、搾取、暴力などはなくなりゆるやかな原始共同体の中に女性は生きている。女達だけの理想の世界、ユートピアの出現。小説で描かれているようなこのユートピアを実際に現実世界でも作ろうとした一派がフェミニズムの中にあった。ここで少しフェミニズムの歴史を簡単に見てみる。19世紀ぐらいから始まった女性の権利拡張運動(第一派フェミニズム)は1920年代には動きはいったん収まる。世界規模での恐慌、相次ぐ大規模な戦争で「それどころではない」というのが実情であったようだ。戦後60年代になってフェミニズムは第二派フェミニズムとして新しい展開を見せるようになる。単なる女性の権利拡張運動だけではなく、社会的構造の置く深くまで入り込んでいる男性優位・男性支配の構造を暴き出し、解体していくことを目標に社会運動、文学などの面で目覚しい活躍をする。その中である一派は、ドメスティック・イデオロギーの否定、更にはラディカルなまでに男性(性)の排除、女性だけの社会の構築を目指した。社会制度や個人の内面にまで浸透している男中心の思想から解放される唯一の道は、女特有・女中心の知の体系を創出することだと考えられたのである。これがラディカル・フェミニズムの分離主義である。ドメスティック・イデオロギーとは何か。フェミニズム批評家の竹村和子氏の名著『フェミニズム』(岩波書店)でドメスティック・イデオロギーについて述べられていることを上手くとまとめると、次のように説明できる。家庭の外=社会で働く男は優秀・積極的・合理的であり、家庭の外に出られない女は従順・消極的・情緒的・非社会的であるというある種の神話のことを指している。これは資本主義ととも誕生した中産階級が主に持っていた(無意識に内面化されていた)イデオロギーであるが、資本主義が高度な発展を遂げると社会全体に広がっていったようである。このドメスティック・イデオロギーに対して真正面からの異議申し立てが「ヒューストン」であるといえだろう。「ヒューストン」は「女」という新しいカテゴリーを創出し、新しい世界の構築を目標としたと解釈することが出来るからだ。「ヒューストン」が描き出した未来の女性社会像は、それまでの文学を含めた芸術や恋愛、生殖行為、階級、社会構造、文化文明が「男」の影響をどれだけ受けているかを際立たせている。その事例にこと欠かないので、幾つか引用してみる。

「じゃ、ぼくらの時代のいわゆる名作、小説や詩なんかを読んでいるのかい」とロリマー。「誰を読んでいるんだ? H・G・ウェルズ? シェイクスピア? ディケンズ? うう、バルザック、キプリング、ブライアン?」彼は言葉につまる。ブラインアはジニーが好きだったベストセラー作家なのだシェイクスピアやそういう古典を最後に読んだのはいつだったろう?
「そう歴史ものね」とジュディ。「面白いわ、と思うわ。陰惨で。現実感はあまりないけど。あなたにはあるでしょうね」と気安く付け加える。

これは「文学」と信じられていたものが「現実感はあまりないけど」などとさらっと流されてしまうシーンである。

だけどそれはわたしたちがそちらに言うことよ」若いジュディが思い余ったように言う。「自分がどんな人間かあなたにはわかるの? 他の人たちがわかるの? ひとりぼっち、姉妹もないくせに! あなたはわかっていないはずだわ、自分に何が出来るか、どういうものに興味があるのか、みんなひとりぼっちのバカよ、層で世、メクラめっぽうに人生を生きて死んでしまうのよ。何も生むことなしに」

未来の女性達はクローン同士を姉妹と呼び合い、染色体レベルでの一致から精神的な支えあいまでできるようになっている。ロリマーがクローンのことに気が付きそれを指摘したらこの引用のような返答が返ってきたのである。ロリマーの時代の(つまり我々の時代でもある)「主体」とか「自我」とか「アイデンティティー」は、絶対的に確かな唯一の芯を持つ自分と、それとは相容れない同様に唯一の芯を持つ他者が互いに触れ合うことで形成されるものであるが(とりあえず私はそう解釈しているが)、ロリマーの時代のそれとは全く異質のものがここでは描かれているのである。一つの核をクローンの数だけ共有し各々で自我を持つ、という現在の我々からは考えられないような自我形態なのである。

「恋愛の歌は?」と誘いの水を向ける。「ここはまだ、そのう、恋愛はあるのかい?」
「もちろんあるわ、恋愛しなければ生きていけないでしょう」だが疑わしげに彼を見る。「あなたの時代から伝わる恋や愛の歌って、なんていうのかしら、すごく気味が悪いのよね。陰惨で、うっとうしくて。まるで恋愛じゃないみたい…あ、そうだわたしたちにも有名な恋愛の歌があるのよ。なかには部分的に悲しいものもあるわ」

ここでは「愛」の形ですら変化してしまった様子が描かれている(女性だけしかいないわけだから当然といえば当然であるが)。ロリマー達の恋愛が「気味悪いもの」にしか思えない未来の女性達。
これらの引用からもわかる通り、自分達=男達=人類が自明でありすばらしいと思っていた価値が単なる男性的局所的価値でしかなく、社会構造が大きく変わるとそれまでの価値体系がボロボロに崩れてしまう様子が「ヒューストン」には他にも見出せる。つまりティプトリーは自分達の存在基盤を失いかけた(失ってしまった?)男達の存在論的恐怖を見事なSF的手法で描き出しているといえるだろう。
 ここまでSF史の中に埋め込んだ「ヒューストン」をフェミニズム批評で評価してきたが、ここから先はそれよりもさらに一歩論を進めてみたいと思う。それはつまり次のような疑問に答えるということである。果たして「女」という単独カテゴリーが成立するのか? また男性性を否定し、その代わりに女性性を前面に打ち立てればそれでよいのか? この作品においては「男性が物理的にいなくなった」というある意味(分離主義には)理想的な思考実験に基づいているSFなのであるから(マーリーン・S・バーが言うところの「フェミズム・ファビュレーション」でもある)、女だけの世界はすでに成立してしまってはいる。それではなぜこの未来世界において文明の発展は緩やかなであろうか。それは単に新しい遺伝子=新しい変化、がもたらされないためなのか(多様性の欠如?)。それとも女性性に潜む本質的な何かが文明の発展を妨げているのであろうか? 例えば文明の発展を測るものさし自体が男性的なものであったとも言えるのかもしれない。しかしそれにしても「女」というものさしならばよいのであろうか。30年前のフェミニズム批評の読みを批判的に検討してみると、「ヒューストン」においていくつか気がつくことがある。それは男性にしろ女性にしろ過剰なほどのステロタイプ化がされていることである。それは男性性に暴力・性欲・支配欲を、女性性に優しさ・情緒の豊かさ割り当てていることでもある。この事態はまた「女」というカテゴリーそのものの困難さを物語っているのではないだろうか。つまり竹村和子氏が『フェミニズム』の中でも

「男」という支配的なカテゴリーを解体するために、それと相補的な関係にあった「女」というカテゴリーを持ち出すことによって、男女の二分法で現実を弁別する思想が封印してきた種々の権力関係を、解放の名のもとに、ふたたび封印するという皮肉な結果が生まれることになる。

と指摘していることがまさに起こっているのではないのか。また最もラディカルな社会構築主義者であるジュディス・バトラーは次のように主著書『ジェンダー・トラブル』で述べている。

わたしが示唆したいのは、フェミニズムの主体の前提をなす普遍性や統一性は、主体が言説を通じて機能する時の表象上の言説の制約によって、結果的には空洞化されてしまうということである。実際フェミニズムに安定した主体があると早まって主張し、それは女という継ぎ目のないカテゴリーだと言った場合、そのようなカテゴリーは受けいれがたいと、あらゆる方面から当然のように拒否されてしまう。このような排除に基づく領域は、たとえそれが解放を目的として作られたものであろうと、結局は、威圧的で規制的な帰結をもたらすものである。(中略)フェミニズムの法的主体として資格付けられているものを、政治操作が産出していると同時に隠蔽している奇跡を追うことは、女というカテゴリーを歴史的に検証するフェミニズムの系譜学の役割である。フェミニズムの主体としての女を問いなおす過程であきらかになることは、女というカテゴリーをなんの疑問ももたずに引き合いにだす姿勢が、表象/代表の政治としてのフェミニズムの可能性をあらかじめとじてしまうということだ。

バトラーがこの著書の中で繰り返し説くのはフェミニズムの主体としての女がもつとされる普遍性への疑問である。「ヒューストン」においては女達の中での差異がなくなっている(あるいはそのような差異を作っているのは男達だから、男達が消えた世界では差異も一緒に消えてしまうのか?) 私はやはりここには意図的な書き落としがあると考えている。だとするとティプトリー「ヒューストン」はヒステリックに男性支配の不毛性を描写し、女性性を無批判に称揚するといった単純極まりないユートピア小説としての読みしかできない作品なのであろうか。私は、あえてその読みを否定したい。この証拠として、ティプトリーという男性SF作家そのものがすでにSFファンダムというある種の言説空間によって構築された主体であるということをまず指摘することから始めてみる。ティプトリーが実は男性であることが明らかになった事件について、小谷真理氏は次のようなことを述べている(「ジェンダー」『アエラムック 現代思想がわかる。』収録)。

文学における男流/女流が必ずしも生物学的な性差に依存するものではなく、社会的に獲得されるものであること、つまり社会的性差が、解剖学的な根幹によって成り立つ生物学的性差にということに必ずしも依存しているわけではなく、むしろ文化に順応するプロセスを通して獲得されるものだということを、この事件は示している。

従ってティプトリーが書くということは、彼女によって書かれた作品が既にメタフィクショナルな仕掛けを本質的に持っていることを意味していると言えるのではないだろうか。SFファンダムにおける自分の性別が構築されたものであることを意識しながら、「ヒューストン」を書いたティプトリーは、「ヒューストン」の中にある仕掛けをした。それは語り手を不在にするという戦略である。一読するとロリマーが語り手を演じているように思えが、見ていると地の文章ではロリマーは「彼」と記され、決して「私」とは書かれていいない。しかしナレイターの視線は限りなくロリマーと溶け合っている。これはロリマー達が飲まされた「抑制解放剤」のため脳内の思考を口から垂れ流してしまうこととも関係していると考えられる。「しゃべりながら考える=シンク・アラウド」状態にあるのである。またこの物語の時間軸は、ロリマー達が宇宙船〈グロリア〉に収容されてから一年たち地球を目前にした時を現在とし、物語の半分以上は現在からロリマーが事の経緯を振り返るという回想譚になっている点にも注意を要する。作品中の語り自体が構築されたものなのである。こように二重三重に曖昧化のフィルターがかけられ、クスリで半ばトリップしているロリマーが時に自分の幼少時のトラウマティックな思い出を呼び起こしたしながらするこの独特の語りの向こうには、読者を罠にはめようとしているティプトリーの姿が見え隠れしているように思える。典型的な男性キャラクター、妙に均一な女という主体をもつ女性キャラクター、戦争のない緩やかな共同体を作っている未来世界。徹底的なまでに典型にすることで、逆に問題点を暗示しているのではないか。その問題点とは「ヒューストン」から30年かかってフェミニズムが理論と運動の試行錯誤の末に明らかにしていったものではないのか、とそんな風に思えてくる。アリス・シェルドン自身、ティプトリーでいるということは当初、結構楽しんでいたようである。『SFマガジン』(97年12月号)にも収録された「SFを書く女性」というエッセイで、次のように告白している。

ところが最初の二作品が売れ、その次も、そのまた次の作品も売れつづけると、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの名前は引き剥がせなくなってしまった。これを愉快なジョークと受け取った私は、自分の匿名性を大いに楽しんだ。ひきこもりがちな性格で、紙の上以外では対人恐怖症なのだ。わたしは楽しく物語りを書きつづけ、驚いたことに、その全てが売れつづけた。

本人が匿名性を楽しんでいることがよく判る(身を隠す手段はCIAから学んだと他の部分で述べてたりもする)。しかしティプリーがアリスであることがわかってしまった後の様子を次のように書いていて、

おかしなことにわたしはひどく動揺した。もう二度と書けないような気がしたのだ。秘密の世界は侵され、魅力的なティプトリー、――かなりの多くの人が彼を魅力的な男性だと思っていた――の招待が、実はヴァージニアに住むただの老婦人ということが明らかにされてしまった。なぞめいた遍歴や、CIAの秘密工作員である可能性について、さまざまな憶測が飛び交うことはもうない。(中略)いまや私は、自分自分もまた悲しい身の上話を抱えた一人の女でしかなかった。もう魔法は使えない。

単なるペンネームとして始まったティプトリーはやがては彼女の重要な人格の一部、あるいはもう一人のアリスにまでなっていたことが伺える。ここに社会装置が人格形成に大きな影響をあたえるという例を見ることが出来るであろう。アリス・シェルドンは意識的にジェイムズ・ティプトリージュニアを作り出したが、ティプトリーは無意識的にアリスへの何らかのフィードバックをし、その意識/無意識の混在の中でつむがれた作品「ヒューストン」は、その作品が世に出ることで巻き起こした論争全てを俯瞰するような視点をも作品中に含んだある意味メタフィクション的な機能をもつSFであり、従って今日のフェミニズムの問題点すらも30年前に暗示することができたのではないか、と思う。ティプトリーは意識的に女性ユートピアが持つある種の不可能性(バトラーが言うところの「フェミニズムの主体としての女の普遍性への疑問」)を描いたわけではないかもしれないが、それはアリス・シェルドンがティプトリーから予想以上の何かを与えてもらったことと同じレベルにおいて無意識的であったと言えるだろう。
「ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか」・・・奥深い作品である。

Bibliography

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