開催日:2003/5/1
レポーター:海老原
課題:ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア「接続された女」(中村融・山岸真編『20世紀SF(4) 1970年代』収録)
RESUME
I 著者略歴
本名アリス・シェルドン、ラクーナ・シェルドン名義で発表されたSF作品も存在する。
(1915) 探検家である父と作家である母メアリー・ヘイスティング・ブラッドリーとの間に生まれる。
(1927) 初めての自殺(??)を試みる、が失敗。
(1935?) 母親との確執からか、大学在学中パーティーで知り合った男と駆け落ち、妊娠する。これも母親の勧めだったが、(当時社会的に認知され始めた)人工中絶を受け二度と子供を産めない体になる。すぐ離婚する。
(1935-42) 20代前半はグラフィック・アーティストとして個展を開いたり美術評論などをする。その後女性として初めて空軍情報学校を卒業。
(1942) 第二次世界大戦の激化とともにアメリカ陸軍に入隊し、写真情報士官としてペンタゴンの中枢で働き始める。
(1945) 空軍情報部のハンティントン・シェルドン大佐と出会い一ヶ月後に結婚。帰国後に軍を退役。
(1952) CIAの発足に夫とともに協力し、その後技術者としてCIAで働く。
(1955) CIAを辞職しワシントン大学で実験心理学を学ぶ。博士号取得後教鞭をとるが健康を害し、退職。SFを書き始める。「セールスマンの誕生」でSF作家としてデビューする。
(1973) 「接続された女」でヒューゴー賞、「愛はさだめ、さだめは死」でネビュラ賞受賞。
(1976) 「ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?」でヒューゴー、ネジュラ両賞受賞。
(1977) 母親の死がきっかけで、女性であることが発覚。
(1987) 心臓発作と出血性の潰瘍をわずらい、鬱病に悩まされていた彼女は、やはり病気で寝たきり(アルツハイマー?)の夫を射殺後、自らの頭を打ち抜き自殺。両者の間には生前このような振る舞いをする取り決めがなされていたようである。
II あらすじ
あらゆる広告活動が〈押し売り禁止法〉の下で禁じられた近未来。巨大会社GTXなどは、自社製品とかを売るために、人気スターにその商品を「さりげなく使わせる」ことで大衆にアピールをする、という戦略をとっていた。その「人気スター」の役回りを演じるようになったのが、P・バークが演じる人工美少女「デルフィ」である。
公共の場での自殺が禁じられている中で自殺をした類稀なるキモいブス女P・バークはGTXに拾われ、法律上死亡扱いとなり、デルフィを操作するための人格として生きることになる。
その後、GTXの社長ポール・アイシャム2世の息子ポール・アイシャム3生と出会い恋に落ちるデルフィ=バーク。ポールは、デルフィ=バークがPP電極によって会社の意のままに操られているのではないかと「早とちり」をする。デルフィ=バークを解放するために施設に乗り込むポール。しかしそこで目にしたのは電極電線まみれの相変わらずキモいブス(しかも磨きがかかった)P・バークだった。「ポールわたしのポール」と攻め寄ってくるバークに「そばへ寄るな!」と叫ぶポール。バークは死んでしまうがデルフィという肉体は生き残る。そしてその肉体には僅かの間だが〈人格〉が残されていたが…それは、果たして、誰の?
III 様々な読解的試み
〈1 小谷真里〉
リプロダクションとは何か? たとえばここに生殖に関する幾つかのテクノロジーがある。人類によって創造されたテクノロジーを、もうひとつの創造――生殖に介入させること。そこには生殖技術(テクノロジー)が生物学的再生産(リプロダクション)でありながら、皮肉にも一種の工業的再生産(リプロダクション)でもあるという、因縁めいた二重の意味作用が存在する。(小谷、pp.43)
生物学的再生産=限りなく女性と同一視
工業学的再生産=限りなく男性と同一視
女性/自然/生物学的生殖VS.男性/文化/工業的再生産(…フェニミズム批評的西欧二項対立の発見)
生物学的生殖を刺すのか工業的再生産を指すのかは文脈(コンテクスト)のみによって判定される。あるいはこういいかえてもよい、生物学的再生産=女性か工業的再生産=男性かをめぐる意味決定論争の場、それがいまリプロダクションの名で呼ばれているのだ、と。(小谷、pp.44)
バーク/デルフィ=母/娘
デルフィ/バーク=娘/胎児
⇒この三者は「母性」としてティプトリーの作品で追求されるテーマである
したがってP・バークとデルフィの間の関係は、母と娘の関係のみならず、胎児と娘(母)の関係をも兼ねていることになろう。そしてこの母/娘/胎児は、まぎれもなくテクノロジーのなかに混沌とした状態で取り込まれているのだ。(小谷、pp.52)
「接続された女」はリプロダクションを巡って生物学的再生産と工業的再生産がせめぎあう一つの思弁小説(スペキュレイティブ・フィクション)であるといえるかもしれない。ここでは、家父長制をまとうGTX機構のテクノロジーが登場し、そこに制度を逸脱する因子が出現し、制度は見直しをはかられることになる。[. . .] リプロダクションをめぐる生物学的生殖と工業的再生産のせめぎあい。それは男性/女性といった対立概念から出発して、いまや、人間を生体材料としてあつかう管理機構――ポリティクスの問題であったのが判明する。ダナ・ハラウェイは現代をサイボーグの時代だと看破し、人と機械の境界侵犯を宣言したが、ハイテク時代の進歩と認識が「生む生」を女性から切り離し「母性」を切り離し、いまや早期は機械に捕らわれ、一人で歩いていこうとしている。 (小谷、pp.59-60)
〈2 巽孝之〉
「接続された女」をサイボーグ・フェミニズムと呼ぶのは、べつだん稀代の醜女P・バークと究極の美女デルフィという女性主人公たちの間に、それこそ電脳的接続関係がなりたっているためではない。ここでは、むしろ制御と自走の詩学としてのサイバネティックスと、性差理論を根底からゆさぶる政治学としてのフェミニズムが根底にからむ。自殺未遂のP・バークはGTXに雇われ、サイバネティックスの装置の中で生き延びるけれども、それはあくまで「父性的なミスター・キャントル」に象徴される支配/従属ネットワークの産物である。デルフィはゆえに、まさしく府県製が理想と望んだ最も快適な女性にほかならず、いっぽう彼女という仮面を操作するP・バークは女性としての女性、父権制にはさいだいのおぞましさ(アブジェクト)として抑圧された女性性以外のなにものではない。P・バークとデルフィはその意味で、たがいがたがいの二重自我をなす。しかしそれは父権制社会におけるかぎりあらゆる女性が甘んじなければならなかった女性性内部の自我分裂ではなかったか。(巽、pp.14-15)
もちろん性差の政治学などと口走るよりも早く、わたしたちはすでに、そもそも性差の概念自体、きわめて政治的に構成されざるを得なかったいきさつを目撃する。「セックスという自然」を「ジェンダーという文化」によって再定義してみせた瞬間、その「再定義」という営為そのものが、性差に本質的な政治的性格に彩られて来た歴史を認識する。エドウィン・アードナーらも暗示するように、もはや自然は単に文化の対立項ではなく、それ自体が文化という言説の産物に過ぎないこと。同様にして、セックスもまた、ジェンダーという概念を派生させた要因というより、むしろジェンダーという言説によって逆操作される効果に他ならないこと。八〇年代以降のアメリカ西海岸を代表する文化批評家ダナ・ハラウェイの「サイボーグ宣言」に連なる一連の論考は、まさにそのような観点にたちつつ、性差内部の政治学こそ最大のサイバネティックスをなすものと看破していく。(巽、pp.16)
P・バーク/デルフィというサイボーグは、なるほどチャーミングな父権制美少女アイドル・デルフィを演じつつ壮大なるサブリミなる広告効果を発揮したが、けっきょくは、きわめて凡庸な男女間恋愛の地獄に堕ちた。いっぽうポールが衝撃をうけたのは、むしろ男女間ならぬ性差内部のゆらぎとして浮上した人間/機械間の脱構築ではなかったか。彼女の身体が崩壊し、彼の精神が痙攣するまさにその時、サイボーグ・ジェンダーがたちあらわれる。(巽、pp.19-20)
〈3 テクストをほぐすように〉
ひとつだけ、はっきりさせとこう。P・バークは、自分の脳がサウナ部屋にあるとは感じていない。あのかわいい肉体のなかにあると感じているんだ。(ティプトリー、pp20)
デルフィは、どの点から見てもロボットじゃない。どうしてもというなら、ウォルドーとよんでほしいね。彼女はまさに普通の娘さ。ただ、脳だけがふつうでない場所にあるだけの、血の通った娘さ。すごいビット伝送速度をもった、単純なリアル・タイムのオン・ライン・システム――つまり、オタクやオタクとおんなじなんだぜ。(ティプトリー、pp30)
だが、ほんのときたま、そのデルフィがまったくの自力でかすかに微笑んだり、“眠り”の中で身じろぎすることがある。(ティプトリー、pp42)
自分が奇現象を目撃していることを、ポールは知らない。ふつうリモートは、涙を流す回路をもっていないのに。(ティプトリー、pp56)
ポールの父親はたぶんミスター・キャントルのような人ではないかと、彼女は考える。(ティプトリー、pp57)
P・バーク? 天幕のなかの死んだラクダのように、多目的ガウンを着てベッドに横たわった彼女は、最初のうち、なぜミスター・キャントルが、ポールと切れろと自分に告げに来たのか、よく飲み込めない。だってP・バークは一度もポールにあったことがないからだ。ポールとあっているのはデルフィなのに。事実。P・バークは彼女がデルフィと別個に存在していることを、もはやはっきりと思い出せなくなっている。(ティプトリー、p59)
あたしは死んで、もう一度デルフィの中によみがえるんだ。(ティプトリー、pp66)
いうならば、P・バークは神経系を体の外にぶらさげてるようなもんだ。(ティプトリー、pp75)
・父性的な人物であるミスター・キャントル
・食べる・寝る・運動する(しなければならない)P・バーク
・デルフィ/バークの境界侵犯
・デルフィ=身体、バーク=精神の脱構築
・バーク死後のデルフィの肉体に宿ったものは何か、あるいは誰の人格か
おまけ サイバーパンク、『AKIRA』
サイバーパンクとはハイテクによって人間の身体や認識が変化することを扱った一連のSF作品群のことである。「接続された女」も充分含めることができる。その意味で『AKIRA』はサイバーパンクであると言えるだろう。
IV 参考文献
『SFマガジン1985年12月号』(早川書房)
『SFマガジン1997年12月号』(早川書房)
小谷真里『女性状無意識』(勁草書房)
水鏡子『乱れ殺法SF控』(青心社)
竹村和子『フェミニズム』(岩波書店)
巽孝之編『サイボーグ・フェミニズム 増補版』(水声社)
守中高明『脱構築』(岩波書店)
COMMENTS
うーん、読書会自体はよかったのだが、もう少し深い読みをしなければあかんなあ、と思う最近です。
ティプトリーの中でこのサイバーパンクをどう処理するか、卒論書くに当たって、結構悩んでおります。