開催日:2002/10/25
レポーター:斎藤
課題:藤子・F・不二雄「天国よいとこ」(『モジャ公』)
RESUME
この作品は1969年から70年、「ぼくらマガジン」で連載された。地球人の子供の空夫、モジャラン星のモジャ公、ロボットのドンモが宇宙を旅するといった話。著者は「21エモン」の二番煎じと言ったらしいが、「21エモン」では宇宙人が地球に旅行に来るのに対し「モジャ公」では地球人が宇宙を旅するという反対の形をとっている。ただ、主人公たちの構成は両方とも地球人(空夫、21エモン一家)、宇宙人(モジャ公、モンガー)、アトム型(感情がある)ロボット(ドンモ、ゴンスケ)と共通する。
○あらすじ
空夫、モジャ公、ドンモの三人は映画監督のタコペッティ(実在の記録映画監督ヤコペッティのもじり)につれられてシャングリラ星へ降り立った。そこは一億年以上も昔に文明が滅び、生物は虫一匹もいない死の星なのだが、調査員たちはみな「ここはすばらしい、天国のような星だ」との通信を残し、皆帰ってこなかったという謎の星である。モジャ公たちがシャングリラ星に足を踏み入れると、そこは欲しいものは頭で考えただけで出てきて、誰も死ぬことのないという正に天国のような星のように見えたのだが?
さて、これはいわゆる「唯脳論」を題材とした話である。最近では「マトリックス」なんて映画があったが、基本的な考え方は同じであり、板垣恵介風に言うならば「貴様らのいる場所は30年前に通過済みだ!」である。
社会学者の宮台真司は『終わりなき日常を生きろ』(ちくま文庫)の中で、現代は唯脳論的な世界観が支配的になっていく(あるいはもう既になった)時代であると主張した。事実、その後少年が「人を殺すこととはどういうことか知りたかった」などと言って近所のおばさんを殺すという事件があり、宮台の分析が正しかったのが証拠付けられた(と言って良いでしょう)。
この殺人事件と、「マトリックス」、そして「天国よいとこ」の三つは唯脳論の根本的な特徴、破綻性を共通に示している。それは、唯脳論は常に強者の論理、加害者の論理であって、弱者、被害者の論理ではないということだ。
ここでちょっと「マトリックス」のあらすじをおさらいしてみると、機械が支配する未来世界で、人間は頭に埋め込まれたコードから偽の世界の情報を流し込まれて、その中で生きているような感覚を味合わされているけど、実際は機械の動力となっている。そして主人公たちが機械に操られた仮想世界から脱出して、現実の荒廃した世界から機械に立ち向かう、といったストーリーだった。
この中で人間の裏切り者が出てきて、荒廃した現実より豊かな仮想世界のほうが良いといって機械と取引して仲間を殺すシーンがある。ここでは唯脳論を選択した男は、その唯脳論的世界観を守るために、自分とは違う世界観を持った者を殺さねばならなかったということが描かれている。
「モジャ公」でも、シャングリラの住人は唯脳論の世界から逃れようとしたモジャ公達を殺そうとする。
先の殺人事件では、唯脳論的世界観では存在しえない他人の人生を消した。
この世には他者というもの、自分と違う主体というものがあって、自己の世界観に常に揺さぶりをかけてくる。もし唯脳論的世界観を押し通そうとするならば、他者を排除しなければならなくなる。ゆえに上の3つの例ではいずれも他者を殺さねばならなかったのである。
ただ、唯脳論の世界を持つ主体(脳の持ち主)を自分以外の人にしてしまう、という荒技もこの世にはあるようだ。名前は忘れたが、神経症の一種に、自分のことが他人事に思えて、知らず知らずのうちに手首を切ったりして、それでもやっぱり自分のことが他人のように思えるなんてのがあるらしい。これだと、他人が自分をいくら傷つけようと他人の脳の中での出来事と捉えることができる。
なんかえらく暗い話になってしまった。会ではもっと明るく、藤子・F・不二雄の絵についてとか、女性観についてとか話しませう。
COMMENTS
なんか私ばっかしゃべってたような気がする。藤子・F・不二雄の話になると我をわすれてしまうので。
荒木飛呂彦の絵で藤子作品をリメイクしたらどうなるかってのは少し面白いと思う。絵は作品の外側を決めるだけではなく、作品の内側も決めてしまうということ。