DATA

開催日:2002/9/6
レポーター:海老原
課題:小松左京『継ぐのは誰か?』

RESUME

第2356回 SF研究会合宿読書会
小松左京『継ぐのは誰か?』(ハルキ文庫) レポーター:海老原

継ぐのは誰か?
――小松左京が描いた21世紀的SFヴィジョン、それを継ぐのは誰か?――


・あらすじ、とか
「チャーリイを殺す」というメッセージ。ヴァージニア大学サバティカル・クラスの学生たちに、その仲間チャーリイの殺人予告。「ぼく(=タツヤ)」は友人たちとチャーリイを殺させないように何とか作戦を考えるが、あらゆる対策空しくチャーリイは殺されてしまう。話はただの予告殺人事件に収まらず、科学警察なる組織のトップ、サーリネン局長やらなんやらがやってきて、どんどんデカい方向へ。
 チャーリイ殺しの犯人は、同じクラスのクーヤである事がやがて判る。クーヤは逃げ切れずに皆の前で自殺をするが、それは終わりではなく始まりであった。「電波人類」一族の存在を人類が知ってしまったから。
 そうチャーリイ殺しは単なる殺人事件ではなく、「人類への挑戦」なのであった。
 物語後半では、舞台は南米へと移りジャングルの奥地に隠れて生活している、クーヤの一族とのコンタクトが描かれる。しかしなんともまあ、電波人類は外見的にも人類とは違っているとか、クスリをうっかり間違えて全滅、などとしょうもない方向で話は収束していく。
 しかし全体として、話の筋には関係ないキャラのセリフなどなどに含まれる、「小松左京のウンチク」などは、時代は時代だがそれを超えて何か感じさせるものが、なくはない(ああ歯がゆい)、と思えるのでこの作品を読書会に選んだのである。話の筋もそこそこに、そのあたりを中心に話しあって行きたい。
 
 ナハティガル(賢者/セージ)…「人類愛などをいっているのではないよ、タツヤ。――ヒューマニズムや、人類愛といったもの、そんなものは自己愛の一種にしかすぎんのだから……。そうではなくて、人類の罪過も、その愚かさもかしこさも、そしてその”価値評価”の相対性や、存在の有限性も――そういったものすべてひっくるめて……人類の滅亡をもふくめて、この大宇宙のすべてを”良し”と肯定するような、”愛”が――そういったものが、世界に現れてこないものだろうかな?」(P201〜)
⇒人類はそのの種としての「幼さ」ゆえに、まだ解決できない問題を抱え、不完全性を持っている。現在の人類の欠点を補完する意味で、あるいは「後継者」の存在が考えられるのか。

タツヤ…「セックスのあと、ひどく哲学的な気分になるということは、ミナとの場合でもよくあったことだ。 (中略) ――人類は「王者」たり得たか――然り! すくなくとも地位としては、彼らは王座に上った。 ――しからば人類は「王者」にふさわしい「徳」を身に備えたか? ――?」(P167〜)
⇒「文明」なり「科学技術」なり、テクノロジー方面を極めるだけでは、「王者」足り得る資格は無い。この考え方はセージと共通する部分がある。

 サーリネン局長とヤング教授…「科学は、人類の滅亡をすくうために、一肌脱いだりはしませんよ。 (中略) ――人類がほろびようがほろびまいが、そんなことは、科学にとっては、一向に痛痒を感じない問題です。そしてまた、人類が、科学者を皆殺しにしても、これまた一向にかまわない……」(P197〜)
⇒科学と人間のあり方、関係性をバッサリと言い切っている。

・参考
まず巽孝之先生の著書より引用。

…小松左京はまさしくこの時、ビッグ・サイエンスに代表される戦後ナショナリズムのみならず60年代ラディカリズムの風潮もまんべんなく吸収して、ひとつの美しい作品を編み上げた、ということである。その意味で、『継ぐのは誰か?』はクラークの思想を戦後日本の文脈で最調理した人類進化SFであると同時に、60年代対抗文化(カンター・カルチュア)のエネルギーが煮えたぎる当時のアメリカをみごとに写しとった青春SFとして、世界SF史上でも燦然と輝く傑作といえよう。
巽孝之『「2001年宇宙の旅」講義』(平凡社新書)より


・参考2
小松左京の論考より、当時の小松自身の考え方をひっぱってくる。巽孝之編『日本SF論争史』(しかもサイン付き!)には小松の論考が2篇収録されているので、そのうちの1篇「拝啓イワン・エフレーモフ様」から適当な箇所を引用。

…SFがそれ自体の本質から、大文学を生み出すということはあり得ないのでしょうか? SFというこの若い文学形式のもつ可能性は、完全に汲み尽くされたのでしょうか?
…しかし、世界の”主流”がそう(=文学から科学を引き離した)であっても、文学が常に人間的現実の〈相対的認識〉を問題にする限り、文学の新しい局面を切り開いた作品は、科学を問題にせざるを得なかった
…SFが文学と科学の大規模な交流を作り出し、過去の大文学の再生ではなく、〈明日の大文学〉を生み出す直接的な契機となりえるかもしれないということの方が、より重要のように思われます。
…SFの視点にたてば、あらゆる形式の文学を――神話、伝承、古典、通俗すべてのものを、相互に等価なものとみなす事が出来る。このことはやがて〈文学の文学性〉を実体概念でなく、機能概念として見る見方に導く。
小松左京『拝啓イワン・エフレーモフ様 ――「社会主義SF論」に対する反論』より

付記。この論考は『1962年ソ連SF傑作集』という本が出て、そのなかにあるイワン・エフレーモフ(ソ連のSF小説家)の論考「社会主義SF論」(SFマガジン’63年9月号)に対しての小松左京の反論(こちらはSFマガジン’63年11月号)である。
 イワン・エフレーモフの「社会主義SF論」を直接読んではいないが、小松の文章の中で要約されているので、それをちょっと書いておく(間接的な形で、こういうのは本来避けるべきなのだが)。
@ SFには”不純”なものと”純粋”なものがある。前者はBEM小説、MS小説、宗教的神秘的テーマに科学のベールをかぶせたものなどであり、つまるところ、作者が気まぐれな途方もない空想の中で、化け物とサイバネティックス、吸血鬼と宇宙船を結びつけるようなものの事である。不純なSFは純粋なSFに取って代わるのが、世界的傾向である。
A 純粋なSFとは、科学的根拠に基づき、科学の成果を人間のための自然改造、社会改造、人間自身のために利用する事についての空想を描くものである。
B このような方向においてSFは、科学に対して人間的地平からのフィードバック(科学者に彼らの発明がどのような世界を作り出すか認識させる)を行い、また不可避的に社会的問題とふれあい、〈大文学〉と接触する。
C 科学知識が普及し、社会に浸透すれば、文学のあらゆるジャンルにおいて科学知識の役割は大きくなる。やがてはSFという特殊なジャンルは消滅し、〈大文学〉の中に吸収される。
 という流れが、エフレーモフの主張のようである。小松じゃなくとも、私ですら反論したくなる内容(反論の仕方は全然違うが)である。


・ポイント、というか思った事

(a)傍点と「――」の使用頻度がめちゃくちゃ高い、小松文体。なれるまで結構めんどくさい。

(b)『果てしなき流れの果てに』とか『日本沈没』『さよならジュピター』などを読めば判るが、小松の長編SFは、どれもみな「パラレル」な感じが凄く強い(と思うのは私だけか?)。

(c)電波人類どうよ? 保守sage? 気合の割に安っぽすぎる気がしませんか? だいたいネオIQとかそういうのって何?(嫌いじゃないけど)。 どこか勘違いの小松。他にも「単純な進歩史観」とでも言うべきヘッポコな箇所がいくつもあります。皆でつっこみまくりましょう。Ex.セックス(パートナー)とか、ドラッグとか、犯罪(戦争)の消滅とか、ヒッピー達に「愛」を見ちゃうあたりとか。

(d)小松左京はこの小説に何を託したのか。小説タイトル「継ぐのは誰か?」は、本文P355のタツヤの独白に見られるように、「行き詰まった(行き詰まりかけている)人類の(そして人類が作り上げた文明の)後継者」は誰か、という意味を持っているのは明白である。だが、小松の中では「行き詰まった文学を継ぐのは誰か? ――そうSFだ!」と勝手に出来上がっていたのではないだろうか。
明日の大文学たるSF、文学を科学することが出来るSF、それを媒体として選んだからこそ、このようなテーマの小説が書けた、と小松の自負が感じられる。セージにしろサーリネン局長にしろ、前掲引用部ではかなりやる気マンマンだと思えるし。
 でもチョット待てよ、小松さん。今の現状どうよ? 君が期待した、君が育てた(といっても過言ではない)「SF」は、「文学」たりえているのか? 

(e)あまり関係ないけれども、皆さん酔っ払ってきて、話のネタに困った時分に。「人類は完全じゃない」――イエス、オア、ノウ? どう思いますか、諸氏の意見を是非に伺いたい(まあ、あくまでネタなんで)。


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